【小説】パンとサイレン

小説

第1章 山霧のサイレン

サイレンの音は、山の谷間で別の獣に変わる。
午前四時二十二分。真っ黒な山肌に、霧の白が帯を引き、道路情報板の「急カーブ注意」の文字だけがやけにくっきり浮かんでいた。

「心拍数どう?」
ハンドルを握る朱音は、肩の無線に顎を寄せた。短く結んだ黒髪がヘッドライトの反射をかすかに拾い、額に青白い線を描く。

「70台。意識混濁、出血あり。現場、先着は消防。」後部の隊員が答える。

カーブを抜けると、赤の点滅が霧の幕を破った。横転した軽ワゴン、ガードレールに突っ込んだバイク。焦げたゴム臭とガソリンの甘い匂いが混ざって鼻を刺す。冷たい空気の中でも、事故はいつも生温い。

「神谷さん!」
低く通る声。振り向けば、反射ベスト越しに腕の太さがわかる消防隊長がいた。ヘルメットの下、短く刈った黒髪、目は静かに仕事の優先順位を並べている。

「香月隊長、状況は?」
「バイクの男性はガードレール下。軽ワゴンの運転手はシートに挟まれてる。燃料漏れあり、火花厳禁。先に下から――」

「了解。私、下へ入る。」
朱音は手袋をはめ直し、斜面に打たれたロープを掴んだ。霧で濡れた草が滑る。背中の器材バッグが重さで身体を引く。足を取られかけた瞬間、後ろからロープがピンと張った。

「焦るな。重心、もう少し低く。」
香月悠斗の手が、見えないところで支えるようにロープを調節した。声は淡々としているのに、不思議と落ち着きをくれる温度がある。

ガードレール下の空間に潜り込むと、バイクの男はヘルメットが割れ、頬には血の筋。呼気にアルコールの匂いはない。脈は細いが触れる。
「聞こえますか、救急です。私は神谷。今から頸椎を固定します。痛いけど、動かないで。」
短く言葉を落としながら、朱音は咬み合わせと瞳孔を確認。咳の前兆のような痙攣。喉が塞がる音。
「吸引機、オン!」
背中で金属音が鳴り、管が渡される。霧がライトで光り、吸い上げた血液が管の中で暗く揺れた。

「上、火花注意!スプレー散布する!」上から香月の声。
「了解。こっちは気道確保して、すぐ上げる!」

頸椎カラーを装着し、スパイダーで固定。斜面の角度を読み、三歩目で必ず右足に力を残す。呼吸音が安定し始めた瞬間、上からのロープテンションが変わる。
「行けるか?」
「行ける!」

三人で息を合わせ、男を担ぎ上げる。ガードレールの縁で、香月が片手で担架のバランスをとり、もう片手で朱音の手首を掴んだ。冷えた手袋越しに、脈拍が互いの中で一瞬混じる。

救急車内。モニターの波形が小刻みに跳ねる。
「バイク男性、外傷性ショック、収縮期80。輸液広げます。香月隊長、ワゴンは?」
「ドアピラー切る。あと3分で引き出す。」
「三分なら、心をつなげる時間はある。」
朱音は自分に言い聞かせるように微笑んだ。香月の目尻がほんの僅か、柔らいだ。

二人が再び外へ出ると、霧はわずかに薄くなっていた。
「ガラス破砕、いくぞ!」
「はい、シートベルト切断後、頸椎固定で引く!」

油膜の張った水たまりに赤灯が揺れる。工具の唸り、火花の代わりに噴霧される泡。切断面が静かに露をこぼすみたいに光る。
ピラーが落ち、ドアが外れた瞬間、運転手の胸郭の動きが止まった。

「――止まった!香月隊長、エアバッグ残圧ゼロ確認、当て板!」
「通した!」

朱音は運転席に腹這いで潜り、胸骨圧迫の位置を探る。ステアリングで胸は変形している。手のひらを重ね、深く、速く、一定に。
「1、2、3……30!」
「バッグ弁マスク!」隊員が換気を合わせる。
霧の冷たさが肺に入ってくる錯覚。腕に乳酸が溜まる痛み。朱音は押すたびに、過去の失敗も、名を呼べなかった誰かの顔も、圧迫のリズムに埋めていく。

「反応!」
微かな痙攣のあと、胸が自分で持ち上がった。
「戻った……戻ったぞ。」香月が短く息を吐く。その声に、サイレンよりも強い現実感があった。

引き出し。担架に乗せた瞬間、運転手の指がぴくりと動く。
「大丈夫、ここにいます。」朱音は耳元で言う。自分にも言っている。

搬送が始まる前、ふと香月と目が合った。霧が晴れるところに、彼の眼差しだけが残っている。
「神谷。」
「はい。」
「朝、落ち着いたら……おまえ、温かいパン食べろ。夜明け前からやってる店、ある。」
「現場で栄養指導ですか?」
「命令だ。」
「はい、消防の命令には従います。」
ふたり、ほんの少し笑った。笑い声は霧に吸われて、それでも確かに互いの胸の中で鳴った。

サイレンが再び鳴る。山の街はまだ眠っている。けれど、東の空が少しだけ白い。

――この街で、朝はいつも現場から始まる。けれど今日は、パン屋の温度で終わるかもしれない。


第2章 夜明けのパンと煙の匂い

パン屋の看板は、まだ空の色より眠そうだった。
山裾の通りに、焼きたての空気がふわりと溢れている。店の名は《ひばり》。夜明け前から灯りを漏らす小さな窓のむこうで、丸い影がトングを鳴らしていた。

「命令、履行しに来ました。」
朱音は救急車庫から歩いてきた足で、そのまま扉を押した。制服の上に簡単なウィンドブレーカー、髪はゴム一本で雑に束ねたまま。

「いらっしゃいませ。あ――」
カウンターの内側にいた青年が、朱音の胸のワッペンを見て、目尻をやわらかくする。「おつかれさまです」

「あの、消防の……いえ、知人に勧められて」
「うち、消防さんの常連多いんです。焼き上がりは今、三陣目。」
ガラスケースのなかで、湯気を含んだハードロールがぎゅっと肩を寄せ合い、クロワッサンが層をほどくように光った。

ドアのベルがもう一度鳴った。
「よう。」短い挨拶。香月悠斗が入ってきた。夜勤明けの顔に、湯気の輪っかみたいに笑いがのぼる。ヘルメットはない。代わりに、黒いニット帽。

「隊長、ほんとに来たんですか。」
「命令したからな。」香月は、陳列棚を見回すふりをして朱音の足元もちらりと見た。「滑ってこけてないか」
「心配性。ほら、無傷。」朱音はつま先をちょんと上げた。

「おすすめ、あります?」朱音が店員に向き直る。
「山ぶどうのカンパーニュと、じゃがいもフォカッチャ。救急さんには塩気のあるのが人気で――」
「それ、二つずつ。あと、コーヒー。」香月が財布を出す。「俺が」
「割り勘で。」
「命令だ。」
「またそれ?」
「便利なんだ。」

くすっと笑う店員が、窓際の二人席を指す。「どうぞ」

パンをちぎると、指先に湯気が絡んだ。じゃがいもの甘さにオリーブオイルのきらめき、外の冷気が、口の中で急に遠くなる。
「……反則。」
「だろ。」香月はカンパーニュを齧り、噛む回数を数えているように静かだ。
「隊長、現場の後って、食べ物の味がやけに具体的になること、ありません?」
「ある。生きてるって、舌で確認するんだろ。」
その言い方に、朱音の笑いが少しだけ影を帯びる。「さっきの運転手さん、持ち直すといいけど」

香月は紙コップを両手で包んだ。「神谷。お前、さっきの圧迫、よかった」
「仕事ですから」
「それでも言っとく。よかった」

沈黙。窓の外、山の稜線が薄く色を取り戻していく。
「隊長は、どうして消防に?」朱音が問う。パン屑が皿に小さな星座を描く。
「中学の時、家、半分焼けた。」唐突で、乾いているのに湿り気のある声。「近所のオヤジがホース持って走ってきてさ、変なもので、あれを見てかっこいいと思った」
「変じゃないですよ」
「そうか。」
「私も――」朱音は言いかけて、コーヒーに逃げる。「……初めて現場で、名前を聞けなかった人がいて。そこから、名札を最初に見る癖がついた」
「だから『神谷』って最初に名乗るわけだ」
「そう。迷ってる間に、名前も呼べなくなるから」

その時、朱音の無線が震えた。
『救急2、山中湖畔キャンプ場より通報。炭火による一酸化炭素中毒疑い、複数名。消防と合同で出場要請』
同時に、香月の端末も鳴る。画面に地図、細い湖畔道の点滅。

「行くか。」
「行きましょう。」
二人はほぼ同時に立ち上がり、トレーを返す。店員が奥から紙袋を差し出した。「これ、サービス。さっきの分の“続き”に」
「助かります。戻れたら報告に」香月が会釈する。
朱音は紙袋を胸に抱え、店を出る直前に振り返った。厨房の奥で、オーブンの灯が赤く呼吸している。命の温度って、意外とパンの温度に近いのかもしれない――そんなことを思う。

外に出ると、朝が急に速くなる。山の影が走り、高架の下で風が回る。救急車の白が、消防車の赤と並ぶ。
「炭火はテントの中か?」
「たぶん。風弱いし、冷え込み強かったから」
香月は無線に短く指示を落とし、運転席へ。朱音は助手席で手袋をはめ、酸素ボンベの残量を確認する。
サイレンがくぐもって鳴り、山がもう一度、獣に変わる。

走り出した車内で、朱音が横目で問う。「さっきのパン、続きは?」
香月は前を見たまま、口角を少し上げた。「生きて帰ってきたら」
「命令?」
「約束」

救急車は湖へ向かう下り坂に差しかかり、朝の光がフロントガラスの内側まで入り込む。二人の横顔に、薄い金色が同じ角度でかかる。
遠く、湖面が光った。けれど手前のキャンプ場からは、見えない煙の匂いが確かに流れてくる。

――二人の一日は、いつも食べかけのパンみたいに途中で切れる。だからこそ、続きを約束できる。


第3章 湖畔の白い息

湖は鏡みたいに静かなのに、岸に近づくほど冷気が刃物に変わる。
キャンプ場の奥、樹々のあいだからテントが群れて見え、一本の煙が、地面近くで横に伸びていた。

「風、弱い。沈むタイプの煙だ」
香月が防毒マスクを手に提げ、現場の外周を切るように歩く。朱音は器材バッグから酸素ボンベを二本、肩にバトンのように担いだ。

若い男性が走り寄ってきた。顔が青白く、焦点が合わない。「友達が……中で寝てて、起きなくて。炭、入れたままで……」
「わかりました。あなたは深呼吸をしないで、外で待って」
朱音は低く落ち着いた声で制し、テントのファスナーに手をかける香月にうなずいた。

「開ける。換気優先」
ファスナーを一気に引くと、むっとした温気が顔を撫で、焦げた甘い匂いが鼻の奥に張りついた。小さな七輪が、灰を抱いたまま赤く呼吸している。
中には二人。ひとりは寝袋の口元に吐瀉の跡、ぐったりと仰向け。もうひとりは膝を抱えて座り、目が半分閉じている。

「搬出、いく」
香月が七輪を長柄で外へ弾き飛ばし、テントの天窓を全部開ける。朱音は意識のない男性の頭を固定し、肩をくぐらせて引きずり出した。
地面に寝かせ、気道確保。舌根沈下。
「換気音なし――酸素、高流量、いきます!」
隊員がノンリブリーザーマスクを渡す。15L/分、ゴムの袋が呼吸の代わりに膨らむ。

「SpO₂、98出てるぞ」若い隊員がモニターを見て言った。
「当てにならない。COは酸素飽和度じゃ見えない」朱音は短く返し、頸動脈を探る。「脈弱い、GCS6。搬送優先」

もうひとりの座り込んだ女性に、香月が上着をかける。「名前、言えるか」
「……え、えり」
「えりさん、このマスクつける。頭、ぼうっとするだろ。すぐ楽になる」
朱音は彼女の手を包み、手袋越しに冷たさを測る。「寒冷ストレスもある。保温強めます」

その時、湖面のほうから、別のテント群がざわめいた。子どもの泣き声。管理人が駆け寄る。「そっちも具合が悪いと!」
香月の視線が跳ねる。
「分隊する。神谷、重症を先発。俺は向こう確認して追う」
「了解。救急2より本部、CO疑い複数名。応援要請、集団事案プロトコル起動を」

担架に乗せた男性のまぶたが、かすかにぴくりと動いた。
「聞こえますか。私は神谷。今あなたを湖の外へ連れていく」
返事はない。でも、皮膚の色が少しずつ人間に戻ってくる。胸の上下は不規則でも、確かにある。

坂道を上がる途中、香月が横から並走した。額に霜の粒。
「向こうは軽症二。吐き気と頭痛。換気で改善。こいつを先」
「了解――香月」
「ん」
「帰り、パンの“続き”、まだ有効?」
息の上がった声で言うと、彼はマスクの内側で目だけ笑った。「約束、更新済み」

救急車に収容。車内の暖房と、酸素の乾いた匂いが混ざる。
「高圧酸素は……この街にはない。最短で連携病院へ」
「搬送先、第一候補受け入れ可」隊員が耳に手を当てる。
朱音は患者の指先にCOオキシメータを挟む。数字がじわじわ上がっていく。
「SpCO 24%……やっぱり。酸素継続、意識レベルモニタ」

車が動き出す瞬間、朱音は後扉から外を見た。湖畔に立つ香月が、小さく親指を立てる。背後では朝日が水面を割り、白い息が金色に染まる。
その光景が、不意に胸の奥で痛い。うまく言葉にならない種類の痛さ――安堵と、恐れと、期待の混合物。

搬送の途中、患者のまぶたがふるえ、うめき声が漏れた。
「大丈夫。ここにいます」朱音は声を落とす。「あなた、名前は?」
「……り、ょう」
「りょうさん。吸って、吐いて。深くじゃなく、ゆっくり」
マスク越しの呼気が、袋を静かに膨らませる。波形が整っていく。生き返る音は、心電図よりも呼吸袋のほうに宿るのかもしれない。

病院搬入。引き継ぎは滑らかに終わり、廊下の端で朱音は一度だけ壁にもたれた。
指先に、パン屋の紙袋の感触がまだ残っている――そう思った瞬間、ポケットの中の携帯が震えた。

『香月:湖畔クリア。管理人に啓発パンフ渡した。戻る』
短い文字列の末尾に、パンの絵文字。
朱音は笑い、返信を打つ。
『神谷:了解。約束、温め直し中』

午後に向かって日差しは強くなるはずなのに、山の街はまだ冬の息を吐いている。
今日の朝は、パンの温度に届くところまで来た――そう思えるだけで、次の出動に向かう背中が少し軽くなった。


第4章 川音のトリアージ

午後四時、山の街の空は鉛色だった。
秋祭りの御神輿が川沿いの橋に差しかかった時、突然の横風と人波の揺れで、先頭が欄干に乗り上げた。鈍い音。ざわめき。次の瞬間、担ぎ手の一人が足を滑らせ、川へ落ちた。

「水難!」
無線が一斉に鳴り、祭囃子は途切れた太鼓みたいに不規則になった。朱音は走りながら救急バッグのジッパーを開け、黄色のトリアージタッグを胸ポケットへ差し込む。

川幅は思ったより広い。水は冷えた鉄のように速い。下流側の浅瀬に、二人がうつ伏せに流れ着いている。岸辺には転倒で頭を打った老人、膝を抱える子、泣きじゃくる担ぎ手。
「一次トリアージ開始します!」朱音は声を張った。「歩ける方は赤テープの外、あの階段上で待って!」

「ロープ、通す!」
香月悠斗が、胴綱を締めながら川へ向かう。黒いウェットスーツの上に救助ベスト、ヘルメットのライトは消してある。
「神谷、岸でバックボード準備。引き上げたら即評価」
「了解。低体温対策、保温材展開します」

朱音は岸の石を蹴って位置を取り、濡れた草の匂いと人の汗の匂いを同じ肺に入れた。
上流で香月が水に入る。冷たさが彼の表情を一瞬だけ硬くする。ロープがきしむ音。
「一人目確保!」
流木に引っかかった青年の体を香月が横抱きにし、岸側の隊員へ合図。
「いち、に、さん!」
引き上げ。青年は咳き込み、川の水を吐いた。皮膚は灰色がかっている。
「気道確保、吸引。SpO₂……低い。酸素高流量!」
ノンリブリーザーマスク、音が大きく息をする。

二人目。ロープのテンションが一度ふっと抜け、次にぐんと重くなった。
「隊長!」
「足、岩にはさまった!」
冷たい水面に、香月の声が低くひびく。朱音の背中を汗が滑った。
「ボルトカッター!」
岸から投げられた工具が、水を切って音を立てる。香月は片手で体を支え、もう片手で水中の何かを切断した。
「外れた、行く!」
引き上げられたのは、沈黙の重さを持つ成人男性。唇は紫、胸は動かない。

「無呼吸、無脈!」
朱音は即座に胸骨圧迫を開始した。水に濡れた衣服の下で、骨と皮膚の弾性が鈍く返る。
「1、2、3……」
換気はバッグ弁マスク。川風が袋を震わせる。腕が焼ける。圧迫の深さを守るため、朱音は歯を食いしばり、声を数えに乗せる。
「30!換気!」
胸の中央に掌が沈み、戻るたびに小さな波が彼女の手首で砕ける。

「AED来た!」隊員が青いケースを差し出す。
「パッド装着、みぞおち避けて右鎖骨下、左腋窩線――」
「解析中、離れてください」機械の声。
周囲の音が一瞬凪いだように小さくなる。
「ショックが必要です。離れてください」
「クリア!」
放電。男性の体がわずかに跳ね、朱音の心臓も内側から二度、強く叩かれた。
「圧迫再開!」

遠くで太鼓が弱々しく一打だけ鳴った。祭りの音が、現実に負けを認めているみたいだ。
「反応!自己脈あり!」
朱音の指先に、細くても確かな拍動が戻った。
「体温低下。保温上げて、濡れた衣服カット。搬送準備!」

その時、香月がふいに岸に膝をついた。濡れた髪から水が滴り、呼気が白くにじむ。
「隊長?」
「問題ない。……ちょっと、冷えただけだ」
言葉は平気のリズムを刻むのに、指がわずかに震えている。朱音は救急毛布を一枚、香月の肩にも押し付けた。
「命令。温まるまで離水禁止」
香月は片方の口角だけ上げた。「命令の乱用はよくない」
「便利なんで」

搬送が走り出すと、川の音が遠ざかる。
救急車内で、朱音は心電図の波形を見守りながら、ふと窓の向こうに立つ黒い人影を見た。香月だ。毛布を肩に、次の現場に向けて無線を取る。
その姿が胸の奥で静かに熱を上げる。冷え切った水の色の中で、彼だけがはっきり温度を持っている。

病院へ引き継ぎ、朱音は玄関の外で濡れた手袋を外した。手の甲は赤く、指の腹は痺れている。
そこへ、タオルを投げるみたいに声が飛んだ。
「神谷!」
振り向けば、香月が自販機の缶ココアを二つ掲げている。湯気の代わりに、缶の表面が白く曇る。
「飲め。温かい」
「甘いの苦手」
「命令だ」
「……便利ですね、ほんと」
缶を開ける音がふたつ、夜の始まりに小さく響いた。

「さっきの圧迫」
「うん?」
「よかった」
「それ、今日二回目」
「何回でも言う」
沈黙。缶の甘さが、遅れて喉に届く。
「香月」朱音は口の中の熱さで勇気を溶かした。「今度の非番、時間、ありますか」
「ある。……パンの“続き”か」
「続きの続き。祭りの屋台でもいい」
「じゃあ、命令。約束を、伸ばそう」
ふたりは同時に笑った。川の音はもう聞こえない。それでも、胸の中では、小さな波が何度も打ち寄せていた。


第5章 トンネルの咆哮

日暮れ前から降り出した雨は、夜には山を叩く音に変わっていた。
国道の長いトンネルに入る車列が、赤い尾灯を等間隔に並べる。息を吸うみたいに車が飲み込まれていき、吐き出されるはずの出口の向こうから、黒い煙が逆流した。

「トンネル内多重衝突、火災発生。救急・消防は至急出場」
無線の声は乾いているのに、意味は濡れて重たい。

朱音はストレッチャーを車体に積み込みながら、指先でヘッドライトの光を弾いた。
「空気、悪くなる。酸素、普段より積む」
「了解!」隊員がボンベを追加で抱える。

現場到着。トンネル入口には白い煙が膨らみ、非常放送がくぐもって響いていた。
「歩いて負傷者が出てくる。デコンライン、ここに」
香月悠斗は現場図を頭に描くように早口で指示を飛ばす。濡れたアスファルトの上、彼の声だけが輪郭を持つ。

「神谷、俺と先着で中へ。火点は中央付近。バスが止まってる」
「了解。空気残量、確認」
二人はマスクを装着し、煙の幕に踏み込んだ。ライトの円が、白い壁にぽっかり穴をあける。

数十メートル進むと、視界の奥に炎のオレンジが揺れた。
乗用車三台と小型バスが絡む。バスの後部から煙が吹き出し、乗客が非常扉の前で押し合っている。
「落ち着いて!一列で、手を離さない!」朱音は声を増幅させ、子どもの肩に自分の手を置いた。「君、先頭。私の声、聞こえる?」
「……うん」
「いい子。ゆっくり、吸って吐いて。いまは浅くでいい」

香月は消火隊と合流し、炎の根を読む。「燃料漏れ、火点はバス下部。冷却優先、噴霧角度30!」
水柱が唸り、蒸気が視界を殴る。熱が頬に刺さるが、マスクの内側の自分の呼吸だけは律動を保っている。

朱音はバス内に身を滑らせ、最後部の座席で動けなくなっている女性の足に目を止めた。
「足、座席フレームに挟まってる!」
工具を要求。ペダルカッターが渡される。
「香月!」
「聞こえてる。3秒だけ水を弱める、今!」
ジュッという音とともに炎が一瞬おとなしくなった。その隙に朱音は手を差し入れ、女性の足を抜く。
「行ける。肩に手、置いて。息、合わせて!」
「ご、ごめんなさい……こわい」
「怖いのは普通。怖くても動けてる、すごい」

避難を誘導しながら、朱音は通路の端で座り込む小学生くらいの男の子を見つける。
膝に抱えたリュックには、手作りのワッペン。「ひばり」と縫ってある。
「名前、言える?」
「ハル……」
「ハル、リュック、偉い。持ててる。いま、外でお母さん待ってるから」
ハルは顔をあげ、涙で濡れた頬をこすった。「ほんと?」
「ほんとに会わせる。だから、私の手、離さない」

背後で爆ぜる音。乗用車のタイヤが破裂した。
瞬間、香月の声。「後退!天井の照明ケーブルが落ちる!」
バスの天井から黒い紐の束が蛇のように垂れ、火花を散らした。朱音はハルの頭を抱え、身を伏せる。
次の瞬間、誰かの肩が彼女の背に覆いかぶさった。
「神谷!」
香月だった。彼の背中に落ちたケーブルが、火をはじくように滑り落ちる。
「だいじょうぶか」
至近距離の声はマスク越しでも落ち着いていて、朱音は一瞬だけ目を閉じた。「大丈夫。ハル、行こう」

避難完了。外気は冷たく、甘い排気の匂いが遠のく。デコンラインで水を浴び、マスクを外す。
朱音はハルのSpO₂とSpCOを測り、酸素を当てる。
「ハル!」と女性の声が飛んだ。人垣を割って母親が走り寄る。
「お母さん!」
再会の抱擁が、現場の騒音の中でだけ聞こえる静けさを作った。
朱音は胸の内で小さく息を吐く。これが見たかった――生き延びた人たちが取り戻す声。

「神谷!」
振り向くと、香月が片腕をだらりと下げていた。袖口が切れて血が滲む。
「いつ切ったの」
「さっき。たいしたことない」
「命令。座って」
「……はい」

救急毛布を肩にかけ、朱音は創部を洗い、出血を圧迫する。
「深さ、1センチ強。縫合適応。救急外来で処置」
「お前、現場だと声が一段低くなる」
「褒めてる?」
「うん。助かる」
言いながら、香月はふと視線を落とす。朱音の頬に指先が触れ、黒い煤を拭った。
「顔、真っ黒」
「お互いさま」
触れた指が一瞬だけためらい、離れる。朱音はその温度に、言葉より先に心臓で返事をした。

火勢は収束し、負傷者の搬送も山を越えた。
雨は細くなり、トンネル入口の非常灯だけが湿った空気の中で緑色に浮かぶ。
「非番の件」香月が言う。「明後日、まだ空いてる」
「私も。……パン、屋台、その次は?」
「映画でも、山でも、どこでも。……約束を、もっと長くしていいか」
朱音は笑みを噛み、頷いた。「更新、受理」

その時、無線が新しい声を乗せた。
『山の西側で土砂崩れの恐れ。避難準備情報発令。消防・救急は待機体制へ』
夜はまだ、終わらない。
二人は視線を合わせ、小さく息を合わせるみたいに頷いた。

「続きは……」
「生きて帰ってから」
「命令?」
「希望」

トランシーバーの雑音が、雨粒に紛れて消える。
約束は伸び続ける。だからこそ、切らさない。二人は再び、それぞれの持ち場へ走った。


第6章 土の匂いの夜明け

夜十一時過ぎ、山が低く唸りはじめた。
無線には「避難所追加」「土砂の流下速度上昇」「河川水位警戒」の文字列が重なって、ひとつひとつが鼓動みたいに目に打ち込まれる。

「西斜面上部、堰き止め崩壊の可能性。ふもとの集会所に濁流到達の恐れ」
管制の声に、朱音は思わず奥歯を噛む。「避難所に、避難が向かってるのに……」

「先行する」
香月悠斗はレインジャケットの裾を引き、救助隊に短く指示を散らした。「発電機、担架、ロープ、油圧スプレッダー。神谷、集会所で医療ブースの立ち上げを。状況によっては即搬出」

雨は粒が大きく、街灯の円を乱暴に叩いた。集会所に近づくほど、土の匂いが濃くなる。
斜面の上で、木が折れる音。黒い影が滑って、地表がわずかにうねった。

「来るぞ!」香月が叫ぶと同時に、山の口が開いた。
轟き。泥と石と、折れた枝。茶色い蛇が道を這い、集会所の壁にぶつかって、建物が呻いた。
窓ガラスが内側へ押し込まれ、悲鳴がいくつも重なった。

「負傷者多数!内部に取り残し!」
朱音は泥に膝まで沈みながら、玄関のガラスの割れ目から身を滑らせた。懐中ライトが濁った空気を切る。
体育館に敷かれたブルーシートの上、人が点在している。棚が倒れ、折り畳み机が歪む。
「歩ける人はここから!赤いコーンの向こうへ!」
自分の声が広がるより早く、子どもの泣き声が耳に刺さる。

「お母さんが……下に」
声の主は、あのトンネルで会ったハルだった。肩にひばりのワッペンのリュック。
「ハル!」朱音は屈み、目線を合わせた。「大丈夫。どこ」
「ステージの裏側……重い棚が――」

「香月!」
「聞こえる。ステージ裏、こじ開ける!」
香月は二人の隊員に合図し、油圧スプレッダーの口を棚の隙間に噛ませた。
「回す。1、2――」
金属がうなり、棚がわずかに持ち上がる。泥に濡れた床が滑る。朱音はその隙に潜り込み、圧迫された女性の胸の上下を確かめた。
「意識あり!呼吸浅い。胸痛の訴え、肋骨の変形……」
「固定具!」
コルセットで胸部を保護し、下肢を引き出す。女性の頬に泥がつき、目尻に涙と雨が混ざっていた。
「こわかった……ごめん、ハル」
「お母さん!」
二人の指が触れた瞬間、朱音はほんの少しだけ目を閉じた。好きな音だ――再会の、指をたぐり寄せる音。

だが、安堵は薄い紙だ。次の瞬間、外壁の向こうで木が折れる鈍い音。
体育館の端、ガラス越しに土がまた一段盛り上がり、避難口のドアが内側に押された。
「二次流入!撤収ライン、北側へ移動!」香月の声が飛ぶ。「神谷、重症を優先!」

朱音は手早くタグを配り、赤・黄・緑を線引きする。
頭部裂創で意識レベル低下、右大腿の変形――「骨盤シーツ巻きます。痛いけど我慢して」
足元の泥が吸い付いて、担架が一瞬沈む。
「ロープ使う。斜面に向かって後ろ歩き。転回はせず前進のみ」
香月の声を背中で受け取りながら、朱音は口の中で患者の名前を繰り返す。呼ぶたびに、彼らが此処にいる輪郭が濃くなる。

「香月、梁のひずみが――」
隊員の警告とほぼ同時に、天井の梁がミシ、と鳴いた。
視線を上げた朱音の眼前で、照明機器が鎖ごと外れ、落ちてくる。
反射で身をかがめたが、足場が泥に取られて遅れる。視界の端に黒い影――

「神谷!」
香月が体を投げ出し、彼女の肩を引いた。照明が脇を掠め、床で粉々に割れる。
衝撃で朱音の耳が一瞬聴こえなくなる。代わりに、自分の心臓の打つ音だけが巨大化する。
「だいじょうぶか」
「……大丈夫。あなたは?」
「平気」
彼の額に血。朱音は手袋ごとそれを拭い、ほんの一秒、彼の額に自分の額を寄せた。マスクのプラスチック越しでも、体温は伝わる。
「命令。離れるな」
「従う」

外への搬送路は一本に絞られた。泥流は弱まったが、足元は深い。
朱音は担架の先頭で、声を絶やさない。
「呼吸、合わせましょう。吸って、吐いて――いいです、その調子」
患者の意識が落ちかけるたび、名を呼ぶ。「由佳さん。ここです。まだ行けます」
由佳はうなずき、歯を食いしばる。担架が段差を越えるたび、彼女の手が朱音の袖を確かめるように摘んだ。

外に出ると、雨は小降りになり、代わりに重機の音が近づいていた。
臨時デコンで泥を落とし、救急車に収容。
心電図、血圧、SpO₂、視線。
「痛みコントロール入れます。呼吸数は維持。胸部所見は……気胸なし、出血コントロール良好」
朱音は短く息を吐き、香月に目で合図する。
彼は親指を立て、すぐ次の瓦礫へ向かった。

搬送の最中、朱音の耳元で、患者がかすれ声で言う。「……ありがとう。名前……神谷さん」
「はい」
「生きて、返す」
「じゃあ、約束です」
言葉にすると、胸の奥で灯が強くなる。約束――この夜、いくつ積み重ねたろう。

病院での引き継ぎを終え、未明。
雨はやみ、雲がほどけはじめた。
消防本部の前で、香月がレインジャケットを脱ぎ、深くひとつ息をついた。衣服の泥が乾きかけ、肩の筋肉が疲労で静かに震える。

「終わったか?」
「ひと区切り。……生きて、帰ってきた」
「じゃあ」朱音はポケットから、くしゃっとなった紙袋を出した。パン屋《ひばり》のロゴ。
「こんな夜に?」香月が目を細める。
「さっき寄った。オーブン、無事だった。店主さん、『現場の人へ』って。夜通し焼いてくれてた」
紙袋を開けると、焦げ目の美しいカンパーニュと、じゃがいもフォカッチャ。湯気はないのに、香りは温かい。

二人、横並びで階段に座る。夜明け前の空気が、とても薄く、とても澄んでいる。
まだ濡れた街路樹の葉が、かすかに風に鳴った。山の黒い縁が、青に変わる。
パンを齧る。粉の甘さが、舌の上に帰ってくる。
「……反則」
「だろ」
同じ言葉、同じ笑い。けれど今は、その奥に、二人だけが知っている夜の重みがある。

「香月」
「ん」
「約束、伸ばしてもいい?」
彼は少しだけ驚いた顔をして、それから頷いた。「伸ばそう。ずっと」
「それ、命令?」
「希望」
朱音は笑って、目を細めた。「従います」

その時、東の雲が裂け、山の端から薄い金色が滲んだ。
鳥の声――ひばりがひとつ、空のどこかで鳴いた気がした。
街は目を覚まし、サイレンのない朝が、ほんの短い時間だけ訪れる。

朱音は立ち上がり、手を差し出す。香月がその手を取る。指先の泥はもう冷えていたけれど、掌の中心には確かな温度が残っている。
「行こうか」
「ああ。続きの、続きへ」

二人の影が伸び、そして重なった。
約束は、朝焼けの中で、静かに更新された。


登場人物紹介(主要キャスト)

  • 神谷 朱音(かみや あかね)/32歳・救急救命士
    山間の中核市の救急隊員。現場では声が一段低くなり、判断と手際が鋭い。名乗りと相手の名前確認を最初にする癖がある。短く結んだ黒髪。好物は《ひばり》のじゃがいもフォカッチャ。

  • 香月 悠斗(かづき ゆうと)/34歳・消防隊長
    寡黙で責任感の塊。水難・火災・災害現場での統率力は抜群。冷静だが、要所で体を張るタイプ。命令口調を便利に使うが、芯はとても優しい。短髪、精悍な目元。

  • ハル/小学低学年の男の子
    第5章トンネル事故の生還者。ひばりのワッペンがついた小さなリュックを大事に抱える。第6章で避難所で再会し、母を案内する勇気を見せる。

  • 由佳(ゆか)/ハルの母
    避難所で棚の下敷きになり負傷。痛みに耐えながらも、息子の声で気力を取り戻す。搬送後に回復の約束を朱音と交わす。

  • りょう/湖畔キャンプ場の患者
    炭火による一酸化炭素中毒で意識障害。朱音の酸素投与と迅速搬送で救命の糸をつかむ。回復途上で名を名乗る。

  • 《ひばり》の店主・小野寺 慎(おのでら しん)/30代・パン職人
    夜明け前から窯に向かう港区出身の職人。現場帰りの人に温かいパンを手渡すのが密かな矜持。非常時には“現場の人へ”と差し入れを焼き続ける。

サポートキャスト

  • 救急隊員・沢渡(さわたり)
    朱音の同乗隊員。モニター管理と搬送段取りが早い、頼れる右腕。

  • 消防副隊長・東条(とうじょう)
    香月の腹心。ロープワークと水難救助に長け、川・土砂現場で力を発揮。

医療・現場のキーワード(読者メモ)

  • CO中毒:酸素飽和度(SpO₂)が正常に見えても安心できない。専用計(SpCO)や症状で判断、酸素投与を継続。

  • トリアージ:多数傷病者発生時の優先度分類(赤・黄・緑・黒)。

  • 背部固定/胸骨圧迫:朱音の“手”の矜持。速く・深く・戻す、の鉄則。

  • 約束:二人が“生きて帰る”ための合言葉。パンとサイレンの間にある、小さな灯。


あらすじ

山あいの中核市。救急救命士・神谷朱音は、夜明け前のサイレンに呼ばれて走り続けている。ある霧の事故現場で、寡黙な消防隊長・香月悠斗と出会う。的確で胆の据わった指示、要所で必ず体を張る背中。現場の終わりに勧められた小さなパン屋《ひばり》の温度が、二人の距離を少しずつ解かしていく。
湖畔のキャンプ場でのCO中毒、秋祭りの川での水難、トンネル火災での多重事故、そして豪雨による土砂流入――命の境目が次々と押し寄せる中、朱音は「名を呼ぶこと」を、香月は「約束を伸ばすこと」を、自分の矜持として選ぶ。
恐れも、ためらいも、現場では言葉にできない。だから二人は、食べかけのパンの“続き”を合図に生きて帰ることを誓い合う。
救いたい人の手と、隣で戦う人の手――その両方を離さずにいられるのか。土の匂いの夜明け、二人はようやく同じ温度でパンを分け合う。サイレンの間に灯る小さな温もりを描く、救助×ラブストーリー。


スピンオフ短編「ひばりの窯の音」

夜明けの少し前、街はまだ口を閉じている。
《ひばり》の窯だけが、低く小さく呼吸をしている。

小野寺慎は、左手で温度計をのぞき込み、右手で生地を台に叩きつける。パンは言い訳を聞いてくれない。気温も湿度も、うまくいかない日の気分も、ぜんぶ粉と水で受け止めて、手で整える。

扉の鍵を外すと、冷えた空気と粉の匂いが入れ替わった。
「おはようございます」
声を出す相手は、まだ誰もいない店内と、自分の背中についた長い影だ。今日も焼く。焼いて、渡す。ここへ帰ってくる人の手に。

ベルが鳴るのは、たいてい夜勤明けの人たちが最初だ。
その朝もそうだった。

「命令、履行しに来ました」
救急のワッペンを付けた女性が、気負いのない背筋で立っていた。髪はゴム一本、頬にうっすら疲れの色。
「いらっしゃいませ。おつかれさまです」
彼女は少しだけ照れたように笑って、パンケースを覗き込む。
「山ぶどうのカンパーニュと、じゃがいもフォカッチャ。救急さんには塩気が人気で」
「それ、二つずつ。……割り勘で」横から入ってきたのは消防の男だ。寡黙そうな顔に、目だけ温度がある。
「命令だ」
「便利ですね」
店の空気がふっとあたたかくなる瞬間を見るのが、慎は好きだ。パンの匂いに笑い声が混じると、窯の火も機嫌がよくなる気がする。

ふたりは窓際に座り、パンをちぎっては、何かを確かめるように噛んだ。
「……反則」
彼女が小さく言い、彼は頷く。それだけの短い会話でも、続きがある人たちの話し方だとわかる。
「また、来ます」帰り際、女性が紙袋を胸に抱えて言った。
「はい。また」慎はいつも通りに返したつもりなのに、声の芯に自分でも気づかない熱が宿っていた。

その日から、彼らはときどき現れた。
彼女は「神谷」と名乗り、彼は「香月」と呼ばれていた。名前はよく覚える。パンは誰に渡すのかで味が変わるからだ。
「現場のあとって、味が具体的になるんですよね」
神谷が言った時、慎は深く頷いた。
「こっちの仕事も、焼き上がりでしか評価されません。途中の苦労は、パンの中にしか残らない」

秋祭りの夜、川の向こうから遠い太鼓の音が聞こえた。
店じまいの準備をしていると、窓に雨が当たる音が強くなる。
「今日はもう少し焼いておくか」
誰に言うでもなく、慎は言った。理由は要らない。理由は、あとから来る人の手の温度になる。

やがて、トンネルの事故の夜。
外はサイレンが切れ間なく行き来し、店の前の道路に赤い光が流れていった。
慎はオーブンにもう一段、じゃがいもフォカッチャを滑り込ませる。冷蔵庫からバターを出し、カンパーニュの表面に軽くはけを走らせた。「乾かしすぎないように」
呟いた声は、焦りではなく、祈りだった。

深夜二時を回った頃、ベルが鳴った。
泥で汚れた制服。息を切らし、それでも礼儀正しく帽子を取る彼――香月が立っている。
「閉店か」
「お疲れさまです。開けますよ」
「差し入れを……現場へ」
「用意してあります」
慎は紙袋を三つ、カウンターに並べた。ひとつは塩気のあるフォカッチャ。ひとつは噛むほど甘さが出るカンパーニュ。もうひとつは、砂糖控えめのクリームパン。
「甘いの、苦手な人もいるでしょう」
香月は意外そうに眉を上げ、それから短く笑った。「助かる。甘いのが苦手な奴が一人いる」
「知ってます」
言ってから、慎はハッとして軽く頭を下げた。「……すみません。常連さんの嗜好は、つい」

夜明け前、雨は土砂に変わった。
テレビのテロップに“避難準備”の文字が流れ、気配が街の温度を下げる。
慎は店の灯を落とさなかった。窯の前に座って、秒針の音を聞く。
扉が開く音。
「小野寺さん」
神谷だった。髪も袖口も濡れて、目だけがまっすぐだ。
「差し入れを、もっと。避難所へ」
「あります。焼きたても、持てます」
慎はカウンターの下から紙袋を出し、さらに追加の生地を窯に入れた。
「代金は、あとで」
「いいえ」慎は首を振った。「現場の人へ」
神谷は少しだけ目を見開いて、それから「戻れたら、また買いに来ます」と言った。
「約束、ですね」
自分でも驚くほど自然に、その言葉が口から出た。神谷は笑って頷く。
「約束、更新しに来ます」

朝が来る直前、街の音がいったん止まる。
サイレンのない数分間。《ひばり》の前の坂道に、泥だらけの二人が並んで座っていた。
慎は店の中からこっそり見る。パン屋は、窓越しに誰かの続きを見守る場所でもある。
二人は同じパンを半分こにし、何かを確かめるように笑った。
よかった、と慎は胸の奥で言った。焼き上がりの鐘が鳴ったみたいに。

数日後。
昼の落ち着いた時間、店に小さな男の子が来た。青いリュックに「ひばり」のワッペン。
「これ、作りました」
差し出されたのは、子どもが縫った不揃いな刺繍の布だった。
「ぼくがね、トンネルで迷子になったとき、この名前見て、パン屋さんだって思い出せたの。だから、貼って」
「ありがとう。大事にする」
慎はぐっと喉の奥が熱くなり、笑って受け取った。
その日のうちに、レジ横の木枠にワッペンを飾る。
『現場で頑張る人へ。パンを通して、ありがとうを。――ひばり』
小さな紙にそう書き添えた。

夜、閉店の札を裏返し、最後の掃除を終える。
カウンターの上には、明日の朝一番に焼くための生地。
窯の火は静かに落ちて、余熱だけが店に残る。
慎は電気を消す前に、窓の外を見た。
街は暗い。けれど、あの二人がどこかの現場で小さな約束を更新しているなら、ここでパンを焼く理由は充分だ。

ベルが鳴るのは、明け方だろう。
「おはようございます」
誰もいない店に、慎は先に挨拶を置いておく。

パンは、誰かに渡されてようやく完成する。
約束は、誰かに受け取られてようやく温度を持つ。
《ひばり》の窯は明日も火を入れる。
サイレンの切れ間に立つ人たちのために、そして、続きのために。

タイトルとURLをコピーしました