第一章「光の匙加減」
梅雨入り前の京都は、湿った風の底にかすかな柚子の香りを隠している。
砂原翠は、町家の細長い工房で、翡翠いろの寒天を薄く流した。底に忍ばせたのは、ゆらぐ水面みたいな柑皮。朝の斜め光が表面を撫で、さらりと揺れる。
「まだ、光が重い」
独りごちて、簾を半分だけ上げる。光は味と同じで、匙加減を誤ると、ただ眩しいだけの雑味になる。
路地に人影が落ちた。
軒先にしゃがみこんだ男が、黒いカメラを構えている。髪は風にほどけ、オリーブ色の軽いジャケット。レンズの向こうの眼差しは、川底の石を選ぶ鷺のように静かだ。
「勝手に撮らないでくれますか」
翠が戸を開けると、男は慌てず、カメラを下ろした。
「ごめん。通りすがりの——いや、紹介で来たんだ。喫茶『ひつじ』の店主から。牧田空。フードフォトグラファー」
「砂原です。予約も、挨拶も、先にどうぞ」
空は素直に頭を下げた。「すみません。あまりに綺麗で、光が逃げる前に、つい」
光が逃げる、という言い方に、翠の目がほんの少しだけ和らいだ。
彼は、工房の中へは入らず、敷居の外で立ち止まる。
「撮らせてもらえますか。作品にしない。今日は挨拶だけのつもりだったけど、手の動きが、音みたいで」
「音?」
「すっとすくって、ためらって、置く。三拍子」
言葉は不器用なのに、観察は恐ろしく正確だった。翠は、流し缶の隅に気泡が寄るのを竹串でほどきながら、ため息をひとつ。
「買ってくれるなら、一枚だけ。名前はまだ無いんです」
「いい。名前は後で付ければいい」
昼過ぎ、翠は鴨川沿いの小さな茶会へ、涼菓を包んだ風呂敷を抱えて向かった。
空はその背を、数歩うしろからついてくる。ついてくる、と言っても、彼は川縁の石や、柳の影や、行き交う影の重なりにいちいち立ち止まるので、実質的にはしょっちゅうはぐれる。
「……仕事、これで回ってるんですか」
「ええ、たぶん。光に遅刻することはあっても、納品には遅れない」
意味がわかるような、わからないような返事。
三条の橋のたもとで、空がふと声を上げた。
「止まって。風」
次の瞬間、川上から強い風が落ち、翠の風呂敷がはらりと舞った。包みが滑って、一つが石畳に転げる。
翠の心臓が冷たく縮む。——割れる、崩れる。
空が素早くジャケットを広げて、転がった包みを覆った。
雨粒がぽつ、ぽつ、と落ち始める。通り雨。柳の影が震え、川面が細かいさざなみに砕ける。
「濡れると表面が曇る。日陰へ」
空は包みを両手で抱え、柳の根元の暗がりへ移した。「光が強すぎると中の柑皮が死ぬ」
「死ぬ、って……」
「うまく言えないけど、生きてると透ける。見せたいのは、それでしょう」
翠は言葉を失った。
空は、包みを丁寧に解き、黒い漆の皿に一つだけ乗せると、地面すれすれにしゃがみこんだ。川面の反射が皿に跳ね、翡翠が内側から灯る。
「動かないで」
シャッター音が、雨脚の合間に溶ける。
撮れた画面を、空が差し出した。そこには、翠が朝から探していたもの——ただの甘さではない涼やかな光が、薄く重なっていた。
「……こんなふうに見えるんだ」
「見えてた。あなたが作ったから」
不意に、胸の奥が熱くなる。
けれど同時に、職人としての警戒が顔を出す。
「勝手に使わないでくださいね。店の名前も、私の名前も」
「約束する。これは、今日の雨の記録。あなたの手の記録」
空は少し笑って、指で画面の端をなぞった。
「名前、まだないんだよね。仮に——『光の匙加減』は?」
「安直です」
「じゃあ、もっといいのを考えて」
ふたりの間に、雨の糸が斜めに落ちる。
通り雨はすぐに上がり、鴨川に短い虹がかかる。翠は濡れた風呂敷を絞り、崩れなかった菓子の数を確かめた。致命傷はない。ほっとする。
そのとき、ポケットの携帯が震えた。
「翠ちゃん? 店の前、貼り紙出てるで。大家さん、来月、建物の耐震工事やら、取り壊しやらって——」
常連の豆腐屋の声が、雨上がりの空気に刺さった。
目の前の虹が、ふっと薄くなる。
空が顔を上げる。「どうした?」
「何でもないです。……茶会、間に合わせないと」
翠は足を早めた。
空は何も聞かず、黙って並んだ。川風がそれぞれのシャツを揺らし、湿った光の粒が、ふたりの距離に小さな橋をかけていた。
第二章「町家の体温」
茶会は、町家を改装した小さなギャラリーで開かれた。畳は古いがよく手入れされ、梁は煤で黒く艶がある。障子越しの光が薄く広がり、湯気と一緒に空気を温める。
「本日の主菓子は、砂原さんの……えっと、まだ無名の涼菓です」
喫茶『ひつじ』の店主・坂東が、少し照れた声で紹介する。
翠は膝をつき、黒漆の皿に菓子を配った。透けた翡翠色の内側に、柑皮が金魚の影のように沈む。
空は邪魔にならない位置でしゃがみ込み、息を殺している。レンズが、灯りの火加減を探るようにわずかに揺れた。
「……やわらかいねぇ」
茶を点てる年配の女性が、舌の上で転がすみたいに言う。「甘さより、光の味がする」
「光の味、か」
空が小さく笑った。
茶会が終わると、坂東が耳打ちしてきた。「さっきの奥さん、町内会長の加代さん。あの人に気に入られたら強いよ。……で、さっきの電話、なんやった?」
「たいしたことじゃないです」
翠は笑ってみせる。笑顔は、薄い飴細工のように心許ない。
裏庭の井戸端で道具を洗っていると、空が近づいてきた。「片づけ、手伝う」
「大丈夫です。あなたは手を冷やさないで」
「僕の手は、いつもシャッターで固いから平気」
冗談めかした声が、井戸の水面に丸く広がる。
沈黙。やがて空がぽつりと言う。
「貼り紙、さっきの電話のこと?」
翠は手を止めた。
言葉にすれば、膨らむ気がしたから、首を振るだけにした。
夕方、鴨川沿いを戻る。空の色は桃と灰の中間。西日が町家の格子を縞模様に染める。
工房の前まで来て、翠は足を止めた。
古い木扉に、新しい白い紙。赤い判が鮮やかだ。
——耐震工事のお知らせ
来月一日より工事に着手。期間未定。安全確保のため、当該建物は一時閉鎖します。立入禁止。
管理会社 ××不動産
「期間未定……?」
喉が乾く。未定ほど、職人を冷やす言葉はない。
「お帰りですか、砂原さん」
低い声。振り向けば、紺のスーツに細いネクタイの男が立っていた。革靴は雨上がりの石畳でやけに光っている。片手にはクリップボード、もう片方には巻き尺。
「管理会社の永田です。今日、説明に伺う予定で」
「電話一本で足りますよね。営業中なんで」
「安全の話です。命が最優先でしょう?」
言い方は丁寧だが、言葉は硬い。
永田は玄関の敷居をひとまたぎし、勝手知った風に室内を見回した。
「ここを、いつからお借りに?」
「祖母の代から」
「古いですね。土壁にひびがある。梁も……」
彼は巻き尺を伸ばしながら、ふと空のほうへ目を向けた。「そちら、カメラはやめてください。記録は弊社が——」
「僕は彼女の友達です」
空はレンズを下ろさずに言った。「貼り紙の文面、撮らせてもらってます。日付と、判の形。後で揉めたら困るから」
永田の眉が僅かに動く。「規定に則って——」
「規定があるなら、期間も『未定』じゃないはずです」
翠の声が、意外にも落ち着いていた。
彼女は貼り紙の端を二本の指で押さえ、紙の繊維の荒さを確かめるように撫でる。「祇園祭が来月です。うちは、その前の『氷室』の頃がいちばん忙しい。閉めろと言うなら、工法と期間を具体的に。代替の倉庫なり、仮設の水回りなりの提案は?」
永田は言葉を選ぶのに二、三秒かかった。「そこまでは……」
「じゃあ、『未定』を貼って帰るだけですか」
空が、翠の横に並んだ。彼の胸の前で、カメラの金属がひやりと光る。
通りを、柴犬の散歩と自転車と、夕飯の匂いが横切っていく。日常の音が、三人の間だけ避けて流れていった。
「梁の傷み、見てもいいですか」
空が言うと、永田は肩をすくめた。「専門家じゃないでしょう」
「光は専門です」
空は玄関に吊るした小さな提灯に火を入れた。
橙の光が梁を舐め、ささくれだった木目が浮かぶ。空はさらに、懐から小さなLEDライトを取り出し、細く絞った光をすべらせる。角度を変えるたび、影が走った。
「見て。ここ、ひびはあるけど、古い。新しく動いた割れは、粉が白い。これは黒い。ほこりが詰まってる。——今すぐ倒れるなら、光の粒が違う」
「あなたは建築士じゃない」
永田の声に苛立ちが混じった。
「ええ。でも、今日この瞬間に『立入禁止』を貼る紙の重さは、理解してるつもりです」
翠は息を吸った。「町内会長に連絡します。明日、大家さんとも話す。今日のところは、貼り紙は預かります」
永田が一歩前に出る。「それは困ります」
「困ってるのはこっちです」
翠は貼り紙をはがし、二つに折って懐に入れた。目の前で扉を閉めるのではなく、ゆっくりと引き戸を開け放ち、暖簾を外してから、代わりに札を掛ける——『営業中』。
永田はしばらく黙っていたが、やがて肩で息をつき、名刺を置いた。「明日の午前、再訪します。——火の用心だけは、頼みますよ」
革靴の音が遠ざかる。
扉を閉めると、町家は一瞬で温度を取り戻した。木の匂い、煮きりみりんの香り、冷たい水音。すべてが自分の領分に戻る。
「……強い」
空がぽつりと言った。
「強くしないと、甘さまで舐められるから」
誰に聞かせるでもなく言ってから、翠は照れて笑った。
空はその笑顔に、少しだけ目を奪われる。
「明日の朝、川で撮ろう」
空が言った。「この町家のための写真を。人が通りかかって、立ち止まるくらいの。名前がなくても、止まる写真」
「貼り紙と戦うために?」
「戦うために。あと、うちの店主が言ってた。『ものづくりは、味方を増やすのがいちばんの防災』」
翠は考える。明日の仕込み、連絡、段取り。
胸の奥で、何かが音を立てて組みあがる感じがした。
「……朝四時。氷の音を入れたい」
空の目が少し大きくなる。「氷?」
「氷室の氷を模した琥珀糖。光で鳴る菓子です」
「いい。僕、光を聴く」
二人で工房の奥に入り、仕込みの準備を始めた。
銅鍋に砂糖水を落とす。火は弱く、焦らない。空は邪魔にならぬよう、椅子に座ってノートを開き、鉛筆で何かを描く。レンズじゃなく、手で構図を考える癖があるらしい。
「ところで」
空が顔を上げる。「さっきの『光の匙加減』、やっぱり安直?」
「うん。……でも、今日は悪くなかった」
「じゃあ、仮タイトルに。明日、もっといいのを奪いに行こう」
外はすっかり暮れて、格子窓に小さな灯がぽつりぽつりと増えていく。
町家の体温は、少しずつ夜に溶け、二人の間に、見えないが確かな火種を残した。
第三章「氷が鳴る朝」
午前四時、空はまだ群青で、山の端だけが乳白色にほどけはじめていた。
町家の土間で、砂原翠は銅鍋から流した琥珀糖を、薄い刃で割っていく。乾ききる前の半透明は、指先の温度に小さく応える。
——シャリン。
「鳴った」
空がつぶやく。椅子に正座して、ノートに音符みたいな記号を描いていた。「高い音。氷より軽い」
「水飴の層が薄いから」
翠は、淡い藍の手甲を締め直し、黒漆の盆に角を並べる。薄い青と淡い金のグラデーション。表面に柚子糖の粉を雪みたいに振った。
空はオリーブ色のジャケットの襟を立て、ストラップを手首に巻いた。「川へ行こう。風が起きる前に」
鴨川の石段は夜露でしっとり濡れ、柳の葉が指先で触れるみたいに揺れている。
東の空が、桃色のひだを何枚も重ねて、ようやく最初の光をこぼした。
「ここなら」
空はしゃがみ、レンズの前に白い和紙を立てる。バウンスを作る代わりだ。「カメラは光を食べるけど、菓子は光の骨格が見えないと弱い」
翠は盆を差し出す。
朝の最初の一筋が、琥珀糖の角に当たり、内側でやわらかく割れる。——シャリン。
空の指がわずかに震えた。シャッターが、同じリズムで応える。
「名前、決めたくなってきた」
空が画面を見ながら言う。
「早い」
「『氷室の口笛』。鳴るから」
「詩的すぎて、ちょっとむずがゆい」
「むずがゆいのは、近いから」
翠は笑いかけ、うまく笑えずに視線を川へ落とした。
水鳥が一羽、流れの弱いところで羽根を整えている。朝の町はまだ眠く、世界は二人のために少しだけ余白を残しているみたいだった。
石段の上から、ぱたぱたと下駄の音。「おはようさん」
町内会長の加代が、手ぬぐいを肩にかけて現れた。続いて、喫茶『ひつじ』の坂東、早朝ランの若者、犬連れの老人。いつのまにか、川辺に小さな輪ができる。
「試食、できます?」
加代が遠慮なく盆に手を伸ばし、角をひとつ。舌に乗せた瞬間、目を丸くした。「鳴いたねぇ」
「今日は、うちの町家のための写真を撮ってます」
空が輪に向かって言う。「立ち止まってくれて、ありがとう」
「町家のため?」
坂東が首を傾げる。
「貼り紙、見たでしょう。『未定』なんて、客あしらいが雑や」
加代が腕を組む。「今日は回覧板より早く、口で回る日やな」
翠は、胸の奥の硬い塊が少しずつ溶けていくのを感じた。
そのとき——
「ちょっと、通してください」
苛立ちを含んだ声。振り向けば、紺の作業服の男たちが赤白のバリケードを担いで、通りを上ってくる。先頭には永田。腕時計を見て、きっちりした笑みを作る。
「おはようございます。安全確保のため、簡易柵を設置します。通行には配慮しますが、営業は——」
「ここ、川沿いやで?」
加代が一歩前に出た。「町家に柵を打つ前に、町内に話すんが筋やろ」
「筋は通しています」
永田はクリップボードをめくる。「理事会にも、大家にも——」
「『未定』の紙は筋ちゃう」
坂東が食い気味に言い、周りがざわつく。
翠は息を吸った。「今、工房で火は使っていません。朝の仕込みは済み。——今日は、町家の前じゃなく、ここで仕事をします」
そう言うと、黒漆の盆を石段の上に置き、さらしを広げて小さな台を作った。
「試食、どうぞ。氷の音を聴いていってください」
空が素早く立ち上がり、和紙を陽の方向に立て直す。彼のカメラが、柵より先に人々の視線を集める。
若者がスマホで撮り、老人が犬のリードを短く持ち直す。加代が声を張る。「一人一個やで。写真は好きなだけ撮り。——永田さん、あんたも食べ」
永田は困った顔で、しかし人目を意識して角をひとつつまんだ。
——シャリン。
永田の眉が、ほんの少しほどける。味覚が理屈に追いつくまでの沈黙。
「鳴るでしょう」
翠が静かに言う。「この町に合う音です」
「……安全は、妥協できません」
永田は抵抗するように言葉を置き、「ただ、今日すぐの閉鎖は再検討します。午前中に構造の専門家を呼びます。三日、ください」
「三日あれば」
加代がすかさず言う。「町内会で仮設の倉庫手当てと、水回りの間借り先、当たっとく」
空はそのやりとりを撮らない。代わりに、カメラを下ろし、翠の横に立った。
「写真、配ります」
リュックから小型のプリンターを取り出し、朝の光を閉じ込めた一枚を吐き出す。
『氷が鳴る。町家は息をする。』
端に手書きでそう添えると、加代に手渡した。
「気取ってるけど、嫌いじゃないよ」
加代が笑う。「祭りの前に、ちょっと騒がしくなるで」
人の群れがほどけ、川はふたたび静けさを取り戻す。
永田は名刺を押しつけるように渡し、「九時に伺います」とだけ言って去っていった。
「ありがとう」
人が散った後、翠はぽつりと言った。朝露で濡れた手の甲に、砂糖が白く残っている。
「ありがとうは、三日あとに」
空が笑う。「戦いは、まだ甘噛みだ」
「噛み切る気、満々ですね」
「噛み切るのは僕じゃない。光と、あなた」
沈黙が落ちる。川面のきらめきが、言葉の隙間を埋める。
空がふと、翠の指先に視線を落とした。「手、冷たい。……その、よかったら、温め——」
「大丈夫」
翠は少しだけ指を引いた。けれどすぐ、くすっと笑う。「朝は、冷たいくらいがいい。甘さが締まるから」
「じゃあ、僕も締めとく」
空は耳まで赤くし、カメラをいじるふりをした。
石段を上がる頃、東の空は完全に目覚め、町は日常の音を取り戻す。
三日の猶予。祭り前の町。光の骨格を持つ菓子。
翠は肩に盆をかけ、心の中で段取りを組み直した。戦い方は、味方を増やすこと——彼の言葉が、体の芯に小さく火を灯している。
第四章「約束の輪郭」
九時ちょうど、永田が白いヘルメットの男を連れてきた。
「構造の宮坂です」
眼鏡の奥の目は眠そうだが、梁を見上げる角度が迷いなく美しい。玄関に敷いたブルーシートの上に、静かな現場の空気が落ちる。
「柱脚の腐朽は軽微。根継ぎは不要やね」
宮坂は小さな木槌で“こと、こと”と叩き、耳で返事を聴いていく。「ただ、差し鴨居の仕口が疲れとる。地震が来たら、ここで首を振る」
「今すぐ倒れますか」
翠の声は、きのうより低く、静かだった。
「倒れはせん。けど、祇園までに仮筋交いを入れたい。作業は二日。出入りは片側だけ。——甘い香りのする側は残そうか」
宮坂の言葉に、空が小さく笑った。
永田がすかさず割って入る。「安全第一ですから、店を閉めたほうが——」
「宮坂さんは『片側営業でいける』って言ってくれてる」
加代がいつのまにか現れ、玄関で腕を組む。「町内で人手出す。うちの大工の孫が、監督持ってるさかい」
永田は口をつぐみ、宮坂はペン先で図をさらさら描いた。
格子窓の内側、左手の土壁の前に、仮設の筋交い。水回りは生かす。客の導線を右手に誘導——墨で引かれた線が、見慣れた工房を見知らぬ地図に変えていく。
「お願いできますか」
翠が頭を下げると、宮坂は軽く会釈した。「ええ。職人さんの手を止めんのが、京都での仕事や」
打ち合わせが終わる頃、戸口にスーツの女性が立った。
濃紺のパンツスーツ、涼しい目元、口角だけで笑う癖。
「西園寺琴音。老舗百貨店のバイヤーです」
坂東が慌てて紹介するより先に、彼女は工房の香りを吸い込み、まるで香水を選ぶ人みたいに目を細めた。
「朝の写真、拝見しました」
手にしているのは、空が配ったプリント。光の中で琥珀糖がかすかに鳴る瞬間が、紙の上に凍っている。
「——この温度で、週末にポップアップを。うちの屋上テラスで、夕方だけ。『光を聴く甘さ』。タイトルは仮でいい」
唐突な提案に、空が目を瞬いた。「三日後?」
「その『三日』を町に返しましょう。工事の間、ここを待つ人の列を、街中に作る」
琴音は翠を見た。「条件は一つ。映える皿に、映える仕掛け。『昔ながら』だけでは、群衆は止まらない」
「映える……」
翠は、奥の棚の木鉢に視線を投げる。家の味、祖母の癖、町の匂い。皿の上に乗り切らないものほど、確かにここにある。
空がそっと言う。「映えるの定義は、僕らが決めていいですか」
琴音は片眉を上げた。「決めて。止まれば勝ちよ」
——
夕方、『ひつじ』の二階で試作が始まった。
ガラスのピッチャーに注いだ寒天液を、氷で冷やした鉢に細く垂らして糸を作る。
空は白い紙を梁から吊り、夕陽を受けてふわりと反射させた。壁には紐が渡され、朝のプリントが洗濯物みたいに揺れている。
「鳴り方が、屋上だと変わる」
空が耳元で囁く。「風が抜けて、高い」
「なら、角を一つ薄くしよう」
翠はピンセットで角を摘み、刃を水平に滑らせる。
——シャリン。
窓の外、沈む日が最後の一筋を置いていく。
琴音が腕を組みながら眺める。「……悪くない。けど、もう一歩。客は夕暮れの写真を撮りに来る。あなたたちの物語を持って帰りたいの」
「物語?」
翠が眉を寄せると、琴音はプリントを一枚摘んだ。そこには、川で盆を差し出す翠と、それをのぞき込む空が写っている。
「これ。距離。あなたたちの間に、風が一本通ってる。——皿の上にも、その風を立てて」
言葉だけ置いて、琴音は携帯を耳に当て、階段を降りていった。
残った空気が、急に広くなる。
「風を立てる、か」
空が笑い、すぐ真顔に戻る。「ねえ、翠」
「うん?」
「今日の夜、東京から電話が来る。三ヶ月の仕事。海外のレストランの撮影。受けるかどうか、返事を、と」
指先の温度が少しだけ冷えた。
「いつから」
「祇園の週をはずして、ってお願いした。でも、無理かもしれない」
「……受けるの?」
空は正直だった。「受けたい。けど、今はここにいたい。両方は、むずい」
言葉の端に、苦い笑いがかすれる。
翠は視線を皿に落とした。薄い角が、窓の風でかすかに震える。
「私のせいで、行かないで、とは言えない」
「言ってほしい、わけじゃない。どうしたら、両方守れるか、一緒に悩ませて」
沈黙。階下のラジオから、古い歌謡曲が上がってくる。
やがて、翠は息を吐いた。「——皿の上の風、立てよう。あなたがいなくても、立つ風を」
「いなくても?」
「行きなよ」
言葉は軽く、重さは指先に落ちた。
空は黙って頷き、また頷いた。
そして、彼はいつもと違う角度から、翠の手を撮った。指の節、薄い傷、粉糖の白。
「行くとしても、ちゃんと戻る。戻る場所を、僕にも作らせて」
「戻る場所は、私の手で作るよ」
空の目が、ほんの少しだけ寂しく笑った。
——
夜、町家に戻ると、玄関に細い竹が立っていた。
加代が置いていった『工事祈願』の小さな笹。短冊はまだ空白だ。
「願いごと、書く?」
空がペンを差し出す。
翠は迷ってから、一枚に短く書いた。
——『光が逃げませんように』
「逃げないように、捕まえ続ける」
空が言って、笹の葉を揺らした。
その瞬間、地の底から音がした。
——ごっ。
微かな揺れ。吊ったプリントが鳴り、格子にかかった小さな提灯がかちりと触れ合う。止まった。
二人は顔を見合わせ、ほっと笑う。
「首を振らないように、明日は早めに片づけよう」
空が言い、カメラをテーブルに置いた。メールの通知が、光の点になって震える。
返事はまだ、打たない。
代わりに、テーブルの上に置いた琥珀糖を指でそっと弾いた。
——シャリン。
その音が、夜の底に、約束の輪郭を描いた。
第五章「風を立てる皿」
百貨店の屋上テラスは、夕暮れ前の風が走っていた。
西の空は杏色、東は群青。塔の時計が六時を指す少し前、人の列が階段に吸いこまれていく。
「タイトル、掲げます」
西園寺琴音が黒板に白いチョークで書く。
——『風を聴く皿 ― 氷室の口笛』
長机の上、砂原翠は最終の仕込みに指を走らせた。黒漆の皿の中央に琥珀糖を三角に組む。その周りを、糸のように細い寒天で輪にする。輪の一部を持ち上げ、竹のピンで支えると、半透明の「風のアーチ」が立った。
小さな雫瓶には、柚子のしずく。客に一滴落としてもらえば、角が揺れ、——シャリン、と鳴る仕掛けだ。
「反射板、ここ」
牧田空が白い和紙を二枚、クリップで柵に留める。夕陽を受けた柔らかい光が皿の骨格を起こす。「風は正面からじゃない。斜め四十五度。皿の影を細くしたい」
「風が強くなってきた」
琴音が空を見た。街のビルの隙間を抜けた突風が、テーブルクロスをはらりと持ち上げる。
「ここは屋上。風と仲良くする設計でお願いします」
琴音は笑い、すぐ無線でスタッフに指示を飛ばした。
開場。
最初の客はランナー姿の若い女性、次に観光客のカップル、続いて仕事帰りのスーツの群れ。加代や坂東も、町内の顔をそろえている。
「お一人ずつ、雫を一滴。音を聴いたら、一口で」
翠が皿を差し出す。
女性が雫を落とす——光る糸がわずかに震え、琥珀糖の角が鳴った。
——シャリン。
目がほどけ、スマホのシャッターが続く。空のカメラは、客の驚きの表情と、皿の上にできる一瞬の風景を交互にすくっていく。
二十人目を超えたころ、空が眉を上げた。「雲、来る」
南から黒い帯が走り、屋上の風が一段階、重くなる。
——突風。
バサッ、と反射紙がめくれ、アーチが揺れ、ピンが一本抜けた。
「押さえます!」
坂東が紙を抱え、加代がテーブルの脚に紐を結ぶ。
それでも風は二度、三度と押し込み、立てたアーチがへたりかける。
「中止を——」警備員が手を広げかけた、その瞬間。
翠は竹ピンを抜き、アーチの根本に指を差し入れた。寒天糸を一気にほどき、空中に放つ。
風が糸を攫い、皿の上に弧を描く。
「……こうします」
彼女はピンセットで糸の端を掴み、器の縁から縁へ渡した。もう一本、もう一本。風に揺れる細い弦。
「ハープみたいに」
空が息を呑む。
「お客さん、雫は弦に」
翠が雫瓶を渡す。
ぽとり。糸が震え、複数の角が重なって鳴る。
——シャラリン。
風に合わせて、音が高く低く、揺れた。
人の輪が一歩、二歩と近づく。琴音が目を細める。「止まった」
「風が、皿の中に入った」
空は反射紙を片手で持ち直し、もう片方でシャッターを切った。彼の肩を、町の風が押す。髪が額に跳ね、目は笑っている。
雨の序章のような細い霧が通り過ぎる頃、警備員が再び近づいた。「安全のため——」
「弦は食べられます」
翠が即答する。「針金ではありません。寒天です。落ちても割れません。——ここは『食べる楽器』のスペースです」
警備員は言葉を飲み込み、琴音が穏やかに会釈した。「責任は当方で負います。五分だけ、風の演奏を」
その五分が、夕暮れを変えた。
弦に雫が落ちるたび、音が立ち、人々の肩がほどけ、まばらな拍手が波のように広がる。
空は客の背中越しに、翠の横顔を撮った。指の節、濡れた睫毛、風に揺れる青い手拭い。
——そのとき、ポケットが震える。東京の番号。
ほんの一瞬、空の視線が遠くへ行った。
翠はそれを見た。雫瓶を空に手渡す。「受けて」
「今?」
「今。ここに風があるうちに」
空は頷き、柵の影へ下がって通話を繋いだ。
「はい。受けます。ただし一つ条件を——祇園前のこの一週間は京都にいる。戻る場所のための仕事がある」
短い沈黙ののち、相手が快諾する声。空は息を吐き、戻ってきた。
「行く。でも、戻る」
「戻る場所、用意しておく」
翠は弦を貼り替えながら言う。「名前、決めました」
「聞かせて」
「『川風の約束』。氷室の口笛は中の名前。皿の名は、約束」
空は笑った。
「写真のタイトルも、それにする」
最後の客が弦に雫を落としたとき、雲は切れ、空はふいに金色になった。
空(そら)が金色になる、という言葉が、そのまま現実になったみたいに。
空(から)っぽの皿に、風の弦が一本だけ残り、——シャリン。
細い音が線香花火の最後の火花みたいに鳴って、消えた。
大きな拍手。琴音が近づき、軽く手を叩く。「勝ち。——週末の二回目、お願いできる?」
翠は息を弾ませて、頷いた。
「できます。町家にも、持って帰る」
空は肩越しに京都の街を振り返った。夕闇が降り、点々と灯りが灯り始める。
「明日、工事が入る。支度、手伝う」
「うん。……行く前に、もう一度、川で鳴らそう」
「約束」
空は右手を差し出し、翠は濡れた指で握った。指先に砂糖の粉が移って、彼の掌に白い星が一つ灯る。
それは、戻ってくるための、小さな北極星だった。
第六章(最終章)「戻る場所」
工事の二日目。町家の片側は仮筋交いで締まり、もう片側で翠は仕込みを続けていた。
奥で宮坂が木槌を“こと、こと”と鳴らし、加代たちが梁の埃を刷毛で落とす。
空は夕方の新幹線で東京へ発つ。玄関の上に掛けた笹はまだ濡れていて、短冊は一枚だけ——『光が逃げませんように』。
「あと何時間?」
翠が聞く。
「四つ」
空は指を四本立てて笑った。「そのうち二つは、君の手を撮る」
「残り二つは?」
「荷造りと、未練」
「未練は持ってって」
空が何か言いかけたとき、戸口の外がふっと暗くなった。
午後の空に、墨をたらしたみたいな雲。
宮坂が顔を上げる。「来るで。突風や」
——ごう、と町を巻く音。
次の瞬間、ブルーシートが外壁で暴れ、留め具が一つ弾け飛んだ。
雨が横から叩き込み、土壁を濡らす。仕込み台の上、銅鍋に水の粒が踊った。
「紙と木型、上へ!」
翠が叫び、坂東と加代が走る。空は反射板の和紙をつかみ、柵ごと引きはがして駆け戻る。
「梁に這わせる。水、逃がす道を作る」
宮坂が脚立を立てる。翠が駆け上がり、空が下で支えた。濡れた木が掌に冷たく噛む。
「結び、どうする?」
空が顔を上げる。
「もやい!」
翠は濡れた縄を握り、梁に回して輪を作る。「片方は生かす、片方は締める」
空が素早く結び目を押さえる。
雨が和紙を叩き、たるみがつく。翠は腰で踏ん張り、指の腹で和紙を滑らせて角度を変えた。
水筋が方向を変え、床ではなく土間の溝へ落ち始める。
「もう一本!」
宮坂が叫ぶ。別の和紙を投げる。翠は受け、濡れた指で裂いて細い帯にする。
「弦にする」
帯を三本、梁から梁へ。雨粒が触れるたび、——シャリン。低い、しかし確かな音。
「鳴ってる」
空が息を呑む。「ここで?」
「うちの町家の、音だよ」
翠が笑い、次の瞬間、脚立がわずかに滑った。
「——!」
空の手が脚立と翠の足首を同時に掴む。
「大丈夫。ここにいる」
握力が痛い。痛みで、怖さがほどける。
翠は深く息を吸い、最後の結びを締めた。和紙の帆が梁にぴんと張り、雨はその上を走って外へ逃げる。
一気に温度が下がった町家で、宮坂が木槌を置く。「助かった。あとは、雨に任せよか」
永田が濡れ鼠で駆け込んできて、目を白黒させる。「何を——」
「水の道を作っただけや」
加代が胸を張る。「安全第一、町内連携第二や」
雨脚は次第に弱まり、やがて、提灯の火が小さく安堵の色に揺れた。
翠はゆっくり脚立を降り、空を見た。彼の髪は額に張りつき、片手のカメラからは水が滴る。
「ありがとう」
「礼はいい。荷物、まだ詰めてない」
「詰めなさい」
言いながら、翠は黒漆の皿を一枚取り出した。
さっきの「弦」を一本、指で弾く。——シャリン。
雨上がりの空気に、音が澄んで浮かぶ。
「お披露目、しよ」
戸を開けると、いつの間にか通りに人が集まっていた。雨宿りの人々、町内の顔、見慣れぬ観光客。
翠は皿を差し出し、雫瓶を渡す。「一滴どうぞ。町家の音です」
雫が落ちるたび、弦が鳴る。
子どもが笑い、老人がうなずき、誰かが手を叩く。
永田が列の最後で立ち尽くし、やがて一歩進んで雫を落とした。
——シャリン。
彼は深く頭を下げた。「……今日のこと、記録します。『未定』の言葉を、もう使いません」
宮坂が微笑み、濡れた眼鏡を上げた。「明日には仮筋交いが終わる。宵山には、客の流れを通してみせる」
空はその場面を、一枚も撮らなかった。
代わりに、雨の匂いと人の体温を、まるごと目にしまった。
——
夕暮れ、京都駅。
ホームの風は電車の体温を運び、発車のベルが秒針を急がせる。
「行く」
空が言う。
「行って」
翠はうなずく。「戻る場所、ここに置いとく」
空は首から外した古いレンズの絞りリングを、小さな真鍮の風鈴の舌に通した。
「壊れたレンズの部品。音、ちょっと低いけど、よく鳴る」
二人は改札の脇の小さな売店で風鈴を買い、店員のおばちゃんに笑われながら、紙袋を分け合って戻った。
「梁に吊るして」
空が言う。「僕がいない間、ここが鳴ってたら、僕の耳にも届く」
「届く?」
「届く」
空は真顔で言う。「光は写真に、音は君に。——そして、どっちも戻る」
ベルが鳴る。
空は右手を差し出す。翠は濡れた指で握り返す。
掌の真ん中、砂糖の粉はもう落ちていた。代わりに、絞りリングの冷たさが残る。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
電車が走り出す。窓に映る町の灯りが線になって流れ、空の顔はすぐに見えなくなった。
翠はホームに一人残り、風鈴の紙袋を抱えて息をついた。
——
夜、町家。
梁に小さな風鈴を吊るす。
外から、鴨川の風が一本入ってくる。
——ちりん。
続けて、皿の上の弦が微かに鳴った。
——シャリン。
高い音と低い音が、一度だけ重なって、離れる。
「おかえり」
誰にともなく、翠は言った。
翌朝、町家の格子に朝日が差す。
仮筋交いは整い、工房は片側だけ開く。最初の客が暖簾をくぐる前に、翠は銅鍋の火を弱めた。
ゆっくり、焦らない。光の匙加減を、今日も確かめる。
扉の外で、風鈴が鳴る。
遠くの空から、新しい写真が届くころ、ここには新しい甘さができている。
約束は風のように見えないけれど、音は確かにここに残っている。
それで充分だ、と翠は思った。
——完。
登場人物紹介
砂原 翠(すなはら みどり)/27・和菓子職人(主人公)
白い作務衣上着+藍の前掛け、藍色の手拭いで髪をまとめる。
季節を味に写す繊細さと、場面で怯まない胆力。菓子の「光の匙加減」に異常なこだわり。琥珀糖と寒天の扱いが得意。
牧田 空(まきた そら)/29・フードフォトグラファー(相手役)
オリーブ色のフィールドジャケット、銀色のビンテージレンジファインダー。
光を聴く感覚派。言葉は不器用だが誠実。旅と仕事の間で揺れつつ、翠の手元に「帰る場所」を見出す。
坂東(ばんどう)/40代・喫茶『ひつじ』店主
白シャツにベスト。面倒見の良い兄貴分。町内のハブで、二人の橋渡し役。
加代(かよ)/60代・町内会長
割烹着+前掛け。辛口で豪胆。実務と人望で町を動かす、頼れる母。名言「味方を増やすのがいちばんの防災」。
永田(ながた)/30代後半・管理会社担当
紺スーツに細ネクタイ、クリップボード常備。最初は事務的に対立するが、町と菓子の音に折れ、誠実さを取り戻す。
宮坂(みやさか)/50代・構造の職人/建築監理
作業着と眼鏡。木槌の音で家と会話する達人。「職人さんの手を止めんのが京都の仕事」。
西園寺 琴音(さいおんじ ことね)/32・百貨店バイヤー
濃紺パンツスーツ。言葉は鋭いが勘は温い。二人の表現を街へ拡散する起爆剤。
スピンオフ「風待ちの夜に」
— 西園寺琴音 × 坂東 —
1
百貨店の屋上で、撤収の音が風に削られていく。
西園寺琴音は濃紺のパンツスーツの上着を肩に掛け、残った紙コップを箱に収めた。京都タワーの灯りが、疲れの輪郭だけをやわらかく縁取る。
「残業の女王、もう閉店ですよ」
ふいに背中から声。喫茶『ひつじ』の店主、坂東。白シャツの袖を肘まで折り、軍手を外す手つきが慣れている。
「片づけは、終わらないものよ」
琴音は短く笑い、風でほどけた前髪を耳にかける。「今日の数字、よかったわ。けど上は、次はもっと派手にって」
「派手?」
坂東が首を傾げる。
「LEDで空中に文字。ドローンで撮影。——風は、光らないのに」
「光らない風、いいじゃない」
坂東は柵にもたれ、夜気を吸い込んだ。「風があれば、音が鳴る。うちで、やります? “風読みの夜会”」
琴音は彼の横顔を盗み見る。白シャツの襟元にコーヒーの香り。まっすぐで、安心する線だ。
「……やりましょう。無電源、無BGM。風と器だけ」
2
『ひつじ』の二階。蓄音機の上で埃が金色に舞う。
坂東は棚から琥珀色の空き瓶をいくつか出し、窓辺に並べた。「昔、理科でやったでしょう。瓶笛。風が通ると鳴る」
琴音はスーツの上着を椅子にかけ、袖を一折り。指で瓶口の角度を探る。
——ふ、と風が抜け、低い音が生まれる。
「……鳴った」
「鳴るよ。風は、嘘をつかない」
坂東は小さなオイルランプに火を入れた。「灯りは最低限。熱気で上昇気流ができて、音が少し高くなる」
琴音は机にスケッチを広げた。瓶笛、和紙の垂れ、細い寒天の弦——翠の工房から借りた素材。
「客の導線はここ。風を切らない道にする。写真用の“止まる点”は二つ。……あなた、どうしてそんな顔」
「いや、会社の人みたいで怖いなって」
坂東は笑いながらも、目がやさしい。「けど、好きです。その本気」
琴音は、言葉より先に頬が温度を変えるのを感じた。
3
開催前日。会議室のガラス越しに、部長が腕を組む。
「屋上の件、演出が地味だ。数字は次が大事だぞ、西園寺君」
「風を主役にします」
琴音ははっきり言った。「写真は撮れます。人は止まります。——派手さより、静けさで勝ちます」
「静けさで売上が立つのかね」
部長は苦笑し、決裁印を渋った。「スポンサーの意向もある。もし目標未達なら、担当替えも検討する」
会議室を出ると、膝の裏が少し震えているのに気づく。
エレベーターの扉が開いて、坂東が紙袋を掲げた。「差し入れ。緊張の糖分」
「あなた、どうしていつもタイミングがいいの」
「風読みだからね」
不意に笑ってしまい、震えが止まる。紙袋の底には、小さな風鈴が二つ入っていた。
「借り物。空くんの形見みたいなレンズの輪っかで作ったって、翠さんが」
琴音は指で舌を鳴らし、風鈴を耳元で揺らした。低い音が、背骨をまっすぐにする。
4(クライマックス)
夜。屋上。
客席は控えめ、風は上機嫌。瓶笛が先に鳴る。——ぶう、と低い、よく通る音。
ランプが点々と並び、和紙の垂れが揺れる。寒天の弦に雫が落ち、——シャリン。
人のざわめきが、少しずつしずまる。
「お一人ずつ、瓶に息を。撮るより先に聴いてください」
琴音の声は落ち着いていた。スーツの裾が風で揺れる。
そのとき、屋上の端で白い光。スポンサーの担当が持ち込んだ投光器が、むりやり空を照らした。
「映像、回します。もっと明るく——」
「待って」
琴音はまっすぐ歩き、ケーブルの前に立った。「今、光を入れると風が死にます。音が潰れる」
「客は明るいほうが——数字が——」
「数字は、止まってからです」
琴音はケーブルを手で押さえ、スタッフの目を見た。「ここは“風の劇場”。照明は、ランプと月だけ」
スポンサーの担当は戸惑い、部長が険しい顔で見守る。
次の瞬間、風が一段強くなり、瓶笛の列がいっせいに鳴った。
——ぶう、ぶお、ぼう。
低音の波に、寒天の弦が——シャラリン。
観客が息を呑み、スマホが下りる。音だけを捕まえるために。
坂東がランプの芯を少しだけ上げ、熱の柱をつくる。音が半音、上がる。
瓶に口を寄せた子どもが、うれしそうに笑う。「鳴った!」
拍手が起きた。投光器の担当が、ゆっくりケーブルから手を離す。部長は黙って腕を下ろした。
そのとき、雲が割れ、月が顔を出す。
瓶の硝子に細い光が入り、琴音の頬に白い道を作った。
「……勝てた」
誰に言うでもなく、彼女はささやく。
5
終演後。
屋上の風は柔らかく、瓶笛だけが名残のように時々鳴る。
坂東が紙コップのほうじ茶を差し出す。「静かな勝ち、だね」
「あなたのおかげ」
琴音は片手でカップを包み、もう片方の手でネクタイを緩めた。
「本当のことを言うと、怖かった。合理って、私にとっては盾だったから。盾を置くと、手が空くでしょう。空いた手で、何を持てばいいのか、ずっとわからなかった」
坂東は少しだけ考えてから、手のひらを差し出した。「今は、これでよければ」
琴音は笑い、そっと重ねる。
風が掌の間を通り抜けた。瓶が小さく鳴る。
——ぼう。
背後で、足音。
部長が近づき、深く頭を下げた。「……見事だった。次も任せる。ただし条件が一つ。今日のように“町の力”を使ってくれ」
琴音はうなずく。「協賛は、町家の修繕費に回す枠を作ります」
「それが君の条件か」
「ええ。風の税金、みたいなもの」
部長は苦笑し、「明日、稟議にかけよう」と去った。
6(余韻)
屋上の柵にもたれて、二人で夜の京都を眺めた。
遠く、町家の方角でかすかな風鈴。
——ちりん。
続けて、どこかで琥珀糖の弦が鳴った気がした。
——シャリン。
「聞こえた?」
琴音。
「うん。戻る音」
坂東。
琴音は頷き、手を離さなかった。
風は光らない。けれど、鳴る。
それで、人は立ち止まる。
それだけで、今夜は十分だった。
——了