【小説】風葬の都に咲く花 第2章

小説

第2章 鐘楼の影と黒い針

夜のアウステラは、骨の風見がカラカラ鳴るだけで、人の声はほとんどない。
鐘楼は町でいちばん高く、黒い指のように空へ伸びている。

ナギとユイは、石段を静かに登った。
ナギの黒い法衣は、月の光で少しだけ青く見える。肩の小さな白花の刺繍が、揺れるたびにきらりと光った。
ユイの長い銀色の髪は後ろで結ばれ、琥珀色の瞳が暗がりをよく見通している。白衣の裾の睡蓮の刺繍は、影の中で水面のように見えた。

「三つ短く、だよね」ユイが囁く。
「うん。もしまた鳴ったら、誰かが合図してる」ナギは頷いた。

最上階の扉は、少しだけ開いていた。
中から、針で布を裂くような、かすかな音――チ、チ、チ。

二人は目で合図し、ナギが先に入る。
鐘のそばの床板には、黒い糸の縫い目が走っていた。風そのものが縫いとめられているようで、足元の空気がへんなふうに重い。

「止まって」ユイが手を伸ばし、ナギの袖をつかむ。「その縫い目、踏むと“落ちる”。夢路に」

その時、鐘の影から、黒い布で下半分の顔を覆った人影が立ち上がった。
影は細長い黒い針を持っている。針の穴には、光を吸うような黒い糸。

「花の子と、夢見る娘」
声は低く、風のすき間から出るみたいに乾いていた。
「この都の眠りは、甘すぎる。少しだけ、苦くしてあげる」

「あなたが風を縫ったの?」ユイの声は静かだが、揺れていない。
「死者の道をねじ曲げるのは、罪だよ」

影は肩をすくめた。
「罪? 重さで測れるのなら、測ってみるといい。――ただし、秤ごと落ちる」

黒い針がひゅっと走り、床の縫い目が増える。
ナギは手を翻し、指先から細い蔓を走らせた。蔓の先に小さな青い花が灯り、縫い目の上を線路みたいに渡っていく。

「花は、糸を解くよ」ナギは落ち着いた声で言った。
蔓が縫い目に触れると、黒い糸がじりじりとほどけ、風が少し軽くなった。

影は一歩、鐘の縁へ。
「解けるなら、もっと縫えばいいだけ」

カン、カン、カン――
鐘が三度、短く鳴った。誰も綱を引いていないのに。
ユイは顔を上げ、瞳の奥に薄い光を宿す。
「見える……あなたの“最後の景色”。――え?」

ユイが息を呑んだ。
彼女の目に、誰かの手が黒い布を口に押し当てる映像がよぎった。
狭い部屋、古い机、壁に“秤の紋”。そして、窓の外に――アウステラの鐘楼。

「あなた、処刑所の書記だった……?」ユイがつぶやく。
「罪の重さを書き続けて、誰も救えなかった。その夜、窓から風が奪った声……」

影の肩がわずかに揺れた。
「見るな」低い声が震える。「私の重さは、私だけのものだ」

ナギは一歩前に出た。
「重さは、背負うためだけにあるんじゃない。分け合うためにもある。――花は、そのために咲く」

影の足元の縫い目が、鐘の縁へと集まっていく。
このままでは、床ごと抜け落ちる。
ナギは蔓を束ね、両手で結び目を作る。
「ユイ、三呼吸、守って」

「わかった」ユイは両手を胸前で合わせ、低く祈りの声を出した。
白い衣の袖がふわりと広がり、空気が澄む。
ユイの祈りは、風のホコリや痛みをやさしく遠ざける。

ナギは結び目に口づけをするように近づけ、そっと息を吹きかけた。
「眠りの結び、ほどけの結び。――黒い糸、花の道へ」

蔓の結び目が青く光り、縫い目に潜り込む。
黒い糸は花に導かれ、鐘の中の空洞へ吸い込まれていった。
鐘の金属が低く鳴り、重たさがすっと抜ける。

影は舌打ちをし、針を構え直す。
「……器用な子だ。なら、これはどうだ」

針が空を突いた瞬間、見えない“縫い目”がユイの足もとに走り、彼女の影と床を縫いとめた。
ユイが動けなくなる。

「ユイ!」
ナギは反射的に自分の影を踏み、ユイの影と並べる。
「影は影でほどく――“二人の影を一つに”」

花の蔓が床に落ちると、二人の影が重なって太くなった。
針で縫われた細い影は、その太い影にほどけ、ユイの足が自由になる。

ユイは短く息を吐き、視線を上げる。
「ありがとう。――今度は私」

ユイは一歩進み、影に向かって静かに言った。
「あなたの最後の景色は、まだ続きがある。窓の外で、誰かが灯りを振ってた。
“助けて”じゃない。“ここにいるよ”って。あなたはそれを見なかっただけ」

影の指が震え、針先がわずかに下がる。
ナギはその隙に、蔓で針の根本をやわらかく包んだ。
「返すよ。あなたの重さ、ひとり分だけ軽く」

青い花が一つ、針の穴にふわりと咲いた。
風が流れ込み、鐘楼の窓から夜の匂いがした。
縫い目はほどけ、黒い糸は煙のように消える。

影はしばらく黙っていたが、やがて背を向けた。
「……花と夢。今日は引く。だが、都の下で“骨の海”が動いている。
風を縫うのは、私ひとりじゃない」

影は窓へ身を投げる――と思った瞬間、風にほどかれて影そのものが薄くなり、夜へ混ざった。

静けさが戻った。
鐘は鳴らない。風は軽い。
ユイはそっとナギの袖をつまむ。
「ありがとう。私、少し怖かった」

「僕も」ナギは笑った。「でも――一緒なら、ほどけるよ」

二人は鐘楼を降りる。
足元の街では、骨の風見がやさしく回っていた。
ただ、遠くの地面の底から、ごくごく小さな“波音”のような気配がした。
骨の海――禁じられた場所の名が、風に混じって聞こえた気がした。

――つづく。

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