第5章 風の井戸と空の王冠
北の回廊は、冷たい風がつねに“吸い込まれる”方向へ流れていた。
骨の壁は薄く、ところどころに古い文字が刻まれている。
ユイは鏡を掲げ、淡い光で足もとを照らした。
ナギは青い花の灯りを散らし、後ろにはさっき助けた子がついてくる。
「名前、教えてくれる?」ユイが優しく尋ねる。
「……リノ」小さな声が返る。「縫うのは、もうやめる」
「うん。糸は道具だ。あなたは自由だ」ナギが笑って見せる。
やがて、巨大な円形の空洞――“風の井戸”に出た。
石で組まれた壁がぐるりと螺旋になり、底は見えない。
中央に、見えない糸で吊られているみたいに“王冠”がふわりと浮かんでいる。
金でできているのに、光は空っぽの器のように冷たかった。
「空(から)の王冠……これが王の息の口だ」ユイがつぶやく。
「眠りを吸って、大きな呼吸にしようとしてる」
足場は狭い。一歩踏み外せば、風に飲み込まれて落ちる。
そこへ、井戸の壁の穴から骨の鳥が数羽、カツカツと嘴を鳴らして飛び出した。
目は空洞、翼は肋骨でできた守り手だ。
「来る」ナギは手を上げる。「“花のはしご”!」
青い花が段々に咲き、宙に階段が現れた。
ユイとリノをその上に乗せると、骨の鳥が突っ込んでくる。
ナギはもう一方の手で、細い蔓を鞭のようにしならせ、嘴の付け根をそっと結ぶ。
「噛まない。――眠って」
鳥はぱたりと羽を閉じ、静かに壁へ戻った。
だが次の群れが来る。数が多い。
ユイが鏡を前に出し、低く唱える。
「“夢路の標(しるべ)”」
鏡から白い帯が伸び、骨の鳥たちに“帰る方角”を見せる。
鳥は首をかしげ、帯の指す影の巣へ吸い込まれるように戻っていった。
「すごい……」リノの瞳が丸くなる。
ユイは笑って頭をなでた。「怖かったら、目を閉じてていいよ」
三人は花のはしごで、王冠の高さまで進んだ。
王冠の縁から、風が言葉みたいな音を立てている。
――ここに、乗せろ。
――空の重さを、埋めよ。
誰かの冠だった場所に、次の誰かの頭蓋を求める声。
ユイが眉を寄せる。
「呼ばれてる……私の“寿命”を担保にすれば、王冠をしずめられる。でも――」
「だめだ」ナギは首を振る。
「君に長く生きてほしい。別のやり方がある」
ナギは胸元の袋から、黒いリボンの痕――最初に見つけた切れ端を取り出した。
「あの縫い目は、“欠けた眠り”の印。これを花で包んで、王冠の空っぽに“眠りの代わり”を入れる」
彼は手のひらに青い花を何輪も咲かせ、切れ端を包むように束ねる。
「でも、誰かが重さを受ける必要がある」ユイが静かに言う。
「その役、私が――」
「僕にやらせて」
ナギはユイの手を取り、短く笑った。
「僕の花は、もともと“分ける”ためにある。君とリノと、三人で分ければ、沈まずに立っていられる」
ユイは迷い、そしてうなずいた。
リノも小さく手を挙げる。「わたしも、少し持つ。針、もう縫わないけど、結び目はつくれる」
三人は輪になり、花束を真ん中に置いた。
ナギが唱える。「“分有(ぶんゆう)の結び・三つ手(みつて)”」
花束がやわらかい光を放ち、三人の胸へ細い線が伸びる。
重さが少しずつ乗り、膝がわずかに震えたが、倒れない。
ナギは息を整え、花束を王冠の空洞へそっと差し入れた。
その瞬間、井戸全体が低く鳴った。
風が逆巻き、王冠は激しく震える。
壁から古い石が剥がれ、骨の鳥の巣が崩れ落ちた。
――だれが、私の息を盗む。
――空(から)であることが、王の資格だ。
声は空っぽなのに、重かった。
ユイの鏡が勝手に明るくなり、井戸の底の影が映った。
そこには人影はなく、“大きな空席(せき)”だけがあった。
座るべき王がいない玉座――不在そのものが、王の正体。
「空虚王……“不在”を王にした時代の呪いだ」ユイの声が震える。
「誰も座らないことで、都を守った。でも、空席はいつか、席そのものを食べ始める」
王冠が花束を吐き出そうとし、風が三人の体を引きはがす。
ナギは歯を食いしばり、さらに花を咲かせて重さを増やす。
「まだだ……“眠りの杭(くい)・四本目”!」
床も壁もない空中に、青い杭が四方へ突き、見えない地面を作った。
三人の足が“そこ”に乗る。
ユイは鏡を王冠へ向け、凛とした声で告げた。
「空席は、空席のままでいて。代わりに“待つ時間”を眠らせる」
鏡面に薄い霧が渦巻き、王冠の震えが少し弱まった。
だが――底から、白い泡のようなものが湧き上がる。
それは骨の粒。砂になりきれない痛みの欠片。
泡は合わさって手のかたちになり、王冠へ伸びてくる。
「王の“手”!」ユイが叫ぶ。
「つかまれたら、誰かが空席になる!」
次の瞬間、横の暗がりからふいに影が現れた。
鐘楼で遭った“影”――かつての書記が、片膝をついて二人の前に立つ。
手にはもう針はない。
「私が、少しだけ持つ。あの夜の続きに、ようやく手が届く」
ナギはうなずき、花の線を一本、影にも渡した。
重さが四つに分かれ、王の手はつかみ損ねて崩れる。
だが、崩れた骨砂は渦になり、井戸の底が黒く口を開いた。
「底が……起きる」ユイが息を呑む。
王冠がぐん、と沈み、花束ごと吸われかけた。
ナギは最後の花を胸から引き抜く。
それは、今まで咲かせなかった大きな花――白と青の境目の花。
「“最深(さいしん)の結び”――僕の呼吸を、花に換える」
花がぱっと開き、王冠の空洞に“息”が満ちた。
風の唸りが一瞬止む。
しかし、止まったぶんだけ、次の反動は大きい。
井戸全体が吸い込みに転じ、三人と影が引きずられる。
ユイの手がすべり、鏡が宙を回る。
リノが泣きそうな声で叫ぶ。「ナギ!」
「大丈夫」ナギは振り向き、微笑んだ。
「――必ず戻る。だから、手を離さないで」
四つの線が、青い光でぴんと張った。
そのまま、底から黒い光が突き上がり、王冠がぎらりと目のように光る。
決着は、次だ。
――つづく。

