【小説】風葬の都に咲く花 Ⅱ ― 潮の図書室 ―

小説

第1章 記憶を失う港町

海は、きれいだった。
けれどナギは、その美しさに少しだけ、息が詰まるような気がしていた。

港町ルメアの朝は、潮の匂いで満ちている。
白い波が石の岸壁に砕け、帆船の影が水面で揺れていた。
遠くで鐘が鳴る。アウステラの鐘とは違い、軽く、短く、すぐに消える音だ。

「……にぎやかな町だね」

ユイが海を見下ろしながら言った。
白衣の裾が風に揺れ、睡蓮の刺繍がきらりと光る。

「うん。でも――」

ナギは言葉を切った。
港は人であふれているのに、どこか“空いて”いる。
笑っている人の顔が、どれも少しだけ、よそよそしいのだ。

二人がこの町に来たのは、一通の手紙がきっかけだった。

「大切なことだけ、忘れてしまう」
「名前は覚えているのに、理由を忘れる」
「海を見て泣くが、なぜ泣くのかわからない」

差出人は、潮縁の港町ルメアの役所。
封筒には、乾いた潮の跡が残っていた。

「ナギ、見て」

ユイが指さした先。
港の倉庫の前で、男が立ち尽くしている。
手には縄。だが船はなく、結ぶ先もない。

「……何をしているんですか?」

ナギが声をかけると、男ははっと顔を上げた。

「あ、ああ……船を……いや、違う」
男は首を振り、困ったように笑った。
「すまない。何をしていたんだっけな」

「その縄は?」
「これか? ……わからない。でも、手に残ってた」

ユイはそっと男の手首に触れた。
一瞬、鏡を使おうとして――やめる。

「最近、何か大切なものを失いましたか」

男は考え込む。
長い沈黙のあと、ぽつりと言った。

「……失くした、というより……抜け落ちた、感じだ」

その言葉を聞いた瞬間、ナギの胸がざわついた。
アウステラの地下で感じた、あの感覚。
“空席”が近くにあるときの、静かな寒さ。

「ユイ……これは」

「うん。眠りじゃない。――記憶だ」

二人は港の奥へ進んだ。
潮の満ち引きで姿を変える路地。
壁には日記の切れ端や、名前の書かれた札が無数に貼られている。

《忘れたら、ここに書け》
《思い出したら、剥がせ》

そんな文字が、あちこちに残っていた。

路地の突き当たりに、小さな店がある。
看板にはこう書かれていた。

――記憶預かります――

店の中は薄暗く、潮の音が妙に大きく響く。
カウンターの奥に、少女がいた。

年はナギたちと同じくらい。
髪は濡れた貝殻の色。
首から、小さなガラス瓶を下げている。

「いらっしゃい」

少女は微笑んだが、その笑顔は、どこか頼りない。

「あなたたちは、忘れに来た人?」

「いいえ」ユイが首を振る。
「確かめに来たの。――ここで、何が起きているのか」

少女は一瞬、言葉を失った。
そして、胸の瓶をぎゅっと握る。

「……それ、言っちゃいけないんだけど」

ナギは静かに言った。
「言わなくてもいい。でも、苦しいなら、分けられる」

少女の目が揺れた。
その奥で、なにかが崩れかけている。

「……私、名前を忘れたの」
「ここで働いてる。でも、どうして働いてるのか、思い出せない」
「毎晩、海の音を聞くと……胸が、痛い」

ユイははっきりと答えた。
「それは、記憶が“盗まれている”んじゃない。――溜め込まれている」

ナギは、床の奥を見た。
店の地下へ続く階段。
そこから、ひどく重たい気配が立ちのぼっている。

「この下に……“図書室”がある」

少女は、うなずいた。
「潮の図書室。忘れたい人たちの、行き止まり」

海の向こうで、鐘が鳴った。
今度は低く、長い音だった。

ナギは花の蔓を指に巻き、息を整える。

「行こう、ユイ」
「うん」

二人は階段へ足を踏み出した。
記憶の重さが、潮のように満ちてくる。

――忘れることは、楽だ。
――でも、戻れなくなる。

潮の図書室は、その境目にあった。


(第1章・了)


第2章 潮の図書室

階段は、思ったよりも長かった。
一段下りるごとに、海の音が近くなる。
水が流れているわけではないのに、耳の奥で波が砕けるような感覚がした。

「……ここ、息がしづらい」

ナギが小さく言うと、ユイはすぐに立ち止まった。
振り返り、ナギの胸元にそっと手を当てる。

「大丈夫。奪われてるわけじゃない。――引っ張られてるだけ」

「記憶に?」

「うん。たぶん、ここにある“量”が多すぎる」

階段を下りきると、視界が開けた。
そこは広間だった。

天井は高く、丸い。
壁一面に、棚、棚、棚。
本ではない。貝殻、ガラス板、瓶、布切れ、木片。
どれも、名前も分類もなく、ただ並べられている。

そして――床一面に、浅い水。

「……図書室、なのに」

ナギは足もとを見た。
水面に、自分とユイの姿が映る。
だが、映像はすぐに揺れて、別の光景に変わった。

笑う子ども。
泣きながら海を見る女。
誰かの背中を追いかける、知らない視点。

「見ないで」

ユイが鏡を伏せる。
「不用意に覗くと、引きずられる」

そのとき、広間の奥から、足音がした。
水を踏む音ではない。
乾いた、軽い足取り。

「……誰かいる?」

返事はなかった。
代わりに、棚の間から小さな影が現れる。

少女だった。
長い髪は潮に濡れたように重く、服の裾は古い司書のものに似ている。
だが、その目は――眠っているようで、起きていた。

「閲覧ですか?」

声は静かで、感情が薄い。

「それとも、返却?」

ユイが一歩前に出る。
「あなたは、この図書室の管理者?」

少女は首をかしげた。
「管理、というほどでは。私はただ、溜まったものを、溜めているだけ」

「あなたの名前は?」

少女は少し考えた。
その間、広間の水面が波打つ。

「……忘れました」

ナギの胸が、きゅっと縮んだ。

「でも、役割は覚えています。私は“潮守(しおもり)”。
記憶が流れ着く前に、受け止める人」

ユイは唇をかみしめる。
「受け止めすぎたら、どうなるか……知ってる?」

潮守は、少しだけ笑った。
それは笑顔というより、形だけの表情だった。

「知っています。
でも、そうしないと、町の人たちが壊れてしまう」

ナギは水面に手を伸ばした。
触れた瞬間、冷たい感触と一緒に、強い感情が流れ込む。

――会いたい。
――でも、思い出したら、前に進めない。

「……これ、全部」

ナギは息を整える。
「“忘れたい”記憶じゃない。“抱えきれない”記憶だ」

潮守は、何も言わなかった。
ただ、棚の奥を指さす。

「行ってください。
ここから先は、私でも、見ない場所」

奥には、円形の扉があった。
貝殻とガラスで作られた、半透明の扉。

その向こうから、はっきりと感じる。
重さ。
眠りとは違う、圧迫感。

「ユイ」

「わかってる」

ユイは鏡を握りしめる。
「ここから先、たぶん――“選び直し”になる」

「記憶を、戻すかどうか」

「うん。正解は、ない」

二人は目を合わせ、うなずいた。
そして、扉に手をかける。

その瞬間、潮守が初めて、感情のこもった声を出した。

「もし……戻すなら」

二人が振り返る。

「私の分は、いりません」
「私は、ここに残るから」

ユイは、即答しなかった。
ナギも、答えられなかった。

扉の向こうで、何かが、目を覚ます気配がした。

――記憶は、戻せる。
――でも、戻した先で、人は同じ場所に立てるのか。

潮の図書室は、その問いを、静かに待っていた。


(第2章・了)


第3章 戻らない記憶、戻れない場所

扉の向こうは、静かだった。
潮の図書室の広間よりも、さらに音が少ない。

ナギとユイが足を踏み入れると、足首まであった水は消え、
代わりに、白い床が広がっていた。
天井も壁も見えない。
ただ、空間だけがある。

中央に、ひとつの円卓。
その上に――貝殻が置かれている。

大人の掌ほどの大きさ。
内側に、淡い光がたまっている。

「……記憶の核(かく)」
ユイが低く言った。
「ここに、溜め込みすぎた記憶が、束になってる」

ナギは近づき、そっと息を吸った。
胸の奥が、ずきりと痛む。

「ユイ。これ……」

触れる前から、わかる。
この貝殻は、誰か一人のものじゃない。
何人分もの“戻りたい瞬間”が、重なっている。

「戻せば、町の人たちは楽になる」
ユイは事実を口にする。
「理由のない涙も、空白も、消える」

「でも」

ナギは言葉を継げなかった。

床に、影が落ちる。
貝殻の光が揺れ、映像が立ち上がった。

――港で、笑う夫婦。
――船出の日、手を振る子ども。
――戻らなかった船。
――届かなかった手紙。

誰かの声が、重なる。

『思い出したら、また泣く』
『忘れていれば、生きていける』
『でも……何かが、足りない』

ナギは歯を食いしばる。
アウステラで、彼は眠りを扱ってきた。
眠りは、休むためのものだった。
起きるためのものだった。

「記憶は……違う」
ナギは絞り出すように言う。
「休めない。戻したら、前より重くなる人もいる」

ユイは黙って聞いていた。
鏡を胸に抱き、視線を落とす。

「……私ね」
やがて、ユイが言った。
「ここに来てから、ずっと見えてる」

ナギは振り向く。

「この貝殻を、私が開く未来」
「町は救われる。人は笑う」
「でも――私は、何かを失う」

「何を?」

ユイは、ゆっくりと首を振った。
「わからない。名前かもしれない。感情かもしれない」
「あるいは……あなたとの記憶」

ナギの喉が、ひくりと鳴った。

「それでも、選ぶ?」

ユイは答えない。
代わりに、貝殻の光が強くなる。

空間が、きしむ。
どこからか、水音が戻ってくる。

「来る……!」
ナギは身構えた。

白い床に、影が染み出す。
形を持たない“何か”。
記憶が溢れすぎて、意思を持ち始めたもの。

――返して。
――全部、返して。

声が、空間そのものから響く。

「これは……敵じゃない」
ナギは前に出る。
「“欲しがってる”だけだ」

彼は掌を開いた。
青い花が、一輪、咲く。

「全部は返せない」
ナギの声は震えていたが、止まらない。
「でも……分けることはできる」

花は増えない。
代わりに、蔓が円卓を囲み、結び目を作る。

「記憶を、“戻す/消す”じゃなく――」
「“持ち直す”」

蔓が貝殻に触れ、光がやわらぐ。
重なっていた映像が、少しずつほどけていく。

港の記憶は、港へ。
船の記憶は、海へ。
失った理由だけが、胸の奥に、かすかな輪郭で残る。

影のうねりが、静まった。

ユイは息を呑む。
「……完全には、戻らない」

「うん」
ナギはうなずく。
「でも、歩ける。泣いても、理由がわかる」

貝殻は、光を失い、ただの殻になる。
役目を終えた証だ。

そのとき、背後で足音がした。

潮守が、立っていた。
いつの間にか、表情がある。

「……軽い」
彼女は胸に手を当てる。
「まだ、空っぽだけど……沈まない」

ユイは静かに言った。
「あなたも、持ち直したの」

潮守は、ゆっくりとうなずいた。

遠くで、鐘が鳴る。
港町の、朝の音。

「戻らないものは、戻らない」
ナギは言う。
「でも、戻れない場所でも、進める」

ユイは微笑んだ。
少しだけ、涙を浮かべて。

「ねえ、ナギ」
「もし……私が何かを失っても」

「そのときは、分け合おう」
ナギは即答した。
「忘れても、結び直せる」

二人は、円卓を背に、出口へ向かう。

潮の図書室は、静かだった。
溜め込む場所から、通り道へ。

――記憶は、重い。
――だから、ひとりで持たなくていい。


(第3章・了)


第4章 潮が引いたあと

朝の港は、少しだけ音が違っていた。
波は同じように岸壁を叩いているのに、ひびきが軽い。

ナギは倉庫の屋根の上から、港町ルメアを見下ろしていた。
船が出る。人が手を振る。
昨日までと同じ光景のはずなのに、胸の奥で、何かがちゃんと“つながって”いる。

「……戻ってる」

小さくつぶやくと、隣でユイがうなずいた。
白衣の袖を押さえながら、風に向かって立っている。

「全部じゃないけどね。でも――歩いてる」

港の広場では、人々が集まっていた。
泣いている者もいる。笑っている者もいる。
ただ一つ共通しているのは、理由があることだった。

「ああ、思い出したよ」
年配の船大工が、頭をかきながら言う。
「昨日はな、娘の命日だった。忘れてたわけじゃない。ただ……思い出すのが、怖かった」

隣の女が、そっと答える。
「思い出せてよかったですね。泣けますから」

泣く理由を持てること。
それは、前に進むための、最初の一歩だった。

ナギは深く息を吸う。
花の術を使ったときの疲れが、まだ残っている。
胸の奥に、小さな空洞のような感覚。

「ナギ、無理してない?」
ユイが横を見る。

「……少しだけ」
ナギは正直に答えた。
「記憶を分けるって、眠りより、ずっと難しい」

ユイはうなずく。
「切り分けられないからね。形がない」

二人が話していると、後ろから控えめな声がした。

「――あの」

振り向くと、潮守の少女が立っていた。
昨日までの彼女とは違う。
背筋が少し伸び、目に迷いがある。

「名前、思い出しました」
そう言って、彼女は胸のガラス瓶を外す。
「エルネ。……それが、たぶん、私の名前」

「よかった」
ユイは心からそう言った。

エルネは微笑み、でもすぐに視線を落とす。
「でも、全部じゃない。ここに残る記憶も、まだある」
「潮の図書室は……なくならないんですよね?」

ナギは首を振る。
「なくさない。――通り道にする」

「通り道?」

「溜める場所じゃなくて、流す場所」
ナギは港の先を指さした。
「持ちきれない記憶が、一度休んで、また歩き出すための」

エルネはしばらく考え、やがて、ゆっくりとうなずいた。

「……じゃあ、私、ここにいます」
「守るんじゃなくて、見送る役で」

それは、重たい選択だった。
けれど、逃げではない。

「ありがとう」
ユイはエルネの手を取り、そっと言った。
「独りにならないで。必ず、また来るから」

昼前、港に一隻の船が着いた。
小さな巡航船。
船腹には、古い印が刻まれている。

――砂の鐘街《サラ=ベル》。

ナギの胸が、また静かに鳴った。
アウステラで感じたのと同じ、遠い呼び声。

「次の“空席”だ」
ナギが言う。

ユイは鏡を見つめる。
そこには、砂に埋もれた鐘と、揺れない影が映っていた。

「重さを測る町……」
「うん。たぶん、影の書記とも、つながってる」

港の人々が、二人に気づき、頭を下げる。
礼ではない。別れのあいさつだ。

「行くんだね」
エルネが言う。

「うん。でも――」

ナギは振り返り、港を見た。
「ここは、ちゃんと残る。忘れられない」

ユイが微笑む。
「忘れても、戻れる場所だよ」

船に乗り込む直前、ナギは掌に小さな花を咲かせた。
青い花びらが一枚、港の風に乗る。

「潮が引いたあとも、道は残る」

船が離れる。
ルメアの港が、ゆっくり遠ざかる。

海の向こうで、砂が鳴る音がした。
まだ聞こえないはずの鐘の、予感。

ナギとユイは並んで立つ。
分け合った重さを、今も胸に感じながら。

次の町へ。
次の空席へ。

――旅は、続く。


(第4章・了)


第5章 砂が鳴る町

船を降りた瞬間、音が変わった。

海の匂いは薄れ、空気は乾いている。
風はあるのに、湿り気がない。
それでも、どこかで「カラ…」と鳴った。

砂だ。
足元の石畳の隙間に入り込んだ砂が、風でわずかに転がり、そのたびに小さく鳴る。
音は鈴にも似ているけれど、鈴ほど優しくない。
冷たい金属を、指で弾いたみたいな音だった。

「ここが……サラ=ベル」

ユイが鏡を胸に当てて言った。
鏡面には、揺れない塔と、沈んだ影が映っている。
塔の先に、鐘の形をした黒い石がぶら下がっていた。

町は砂漠の縁にあった。
建物は低く、壁は赤茶けた粘土で固められている。
窓は小さく、扉は厚い。
人々はフードやスカーフで顔を隠し、歩くたびに、腰のあたりで小さな金具が鳴った。

「みんな、何か下げてる」
ナギが言う。

「秤の分銅だよ」
ユイが答えた。
「……身につけてる。怖いね」

通りの角を曲がったところで、黒い看板が見えた。

《計量所(けいりょうしょ)》

入口には、金属の門。
その上に、巨大な秤の紋が刻まれている。
秤の片方には、石。
もう片方には――小さな人影。

ナギは思わず足を止めた。

「……人を、重さにするの?」

「ここでは」
ユイの声が少し硬い。
「罪だけじゃなくて、“痛み”も“努力”も“善意”も、全部量るらしい」

量る。
言葉にすると簡単なのに、実際にそれをされると、胸の奥がざらつく。

二人が計量所の前に立つと、門番が近づいてきた。
黒い布で鼻と口を覆い、目だけが見える。

「外から来た者か」
門番は、腰の分銅を鳴らした。
「申告しろ。お前たちの“重さ”は何だ」

ナギは一瞬、言葉を失った。
ユイが先に答える。

「旅人です。困っている人がいると聞いて来ました」

門番は鼻で笑うような息を出す。
「困り? それも重さの一つだ」
「助けたいなら、先に量れ。軽い者の助けは、風に散る」

「量らないと、入れない?」
ユイが静かに聞く。

「入れる」門番は言った。
「だが、量らぬ者は“無量(むりょう)”として扱われる」
「無量は、価値がない。声も、権利も、残らない」

ユイの指が鏡を強く握った。
ナギは息を吸う。

「……わかった」
ナギが言った。
「でも、僕らの“重さ”は、秤に乗るものじゃない」

「口が軽い」
門番が言い捨てる。
「では中へ。軽さを証明してみろ」

門が開いた。


計量所の中は、広かった。
床は白い石で、中央に巨大な秤台がある。
秤の皿は二つ。片方は空。もう片方には、黒い布の束が積まれていた。

人々が列を作っている。
誰も喋らない。
ただ、秤の針が動く音だけが響く。

カチ、カチ、カチ。

係員が淡々と呼ぶ。
「次。申告」

若い男が前へ出た。
痩せて、目の下に影がある。
彼は小さな袋を差し出した。

「これは?」係員。

「……母の形見です」
男の声は震える。
「売りたくない。でも、借金が」

係員は袋を秤に置き、針の動きを見た。
「軽い」
その一言で、男の顔色が落ちた。

「軽い……?」
男は声を上げかけて、すぐに飲み込む。
周りの視線が、冷たい。

係員が続ける。
「軽い形見は、軽い嘆き」
「軽い嘆きは、軽い救済しか買えない。次」

男は袋を握り、よろよろと下がった。

ナギの胸が熱くなる。
ユイは唇を噛み、鏡を伏せた。

「……それ、違う」
ナギが小さく言った。
「重さで、心を決めるな」

ユイはナギの袖を軽く引く。
「ここでは、声を上げると危ない。まず情報を」

二人は列から外れ、壁際を歩いた。
そこに、古い掲示板がある。紙が何重にも貼られ、砂で角が削れている。

《無量者(むりょうしゃ)に告ぐ》
《秤に乗らぬ者は、秤の外に落ちる》
《落ちた者は“記録されない”》

そして、さらに小さな文字。

《記録されぬ者は、助けられぬ》
《助けられぬ者は、存在しない》

ユイが呟く。
「……これ、記憶欠損と似てる」

「違うのは、誰かが望んでやってることだ」
ナギが答える。

そのとき、背後から声がした。

「似てるよ。とても」

二人が振り向くと、黒い外套の男が立っていた。
顔は半分、布で隠れている。
ただ、その目は――見覚えのある静けさを持っていた。

「……影の書記?」

男は少し驚いたように瞬きをし、そして、ゆっくりと頷いた。
「そう呼ばれていた」
声は前より落ち着いている。
「君たちが来る気がしていた。風が、砂に変わったから」

ユイは一歩近づく。
「ここで何が起きてるの?」

影の書記は、計量所の中央を見た。
「秤は、昔からあった」
「でも最近、“針”が変わった」

「針?」
ナギが眉を寄せる。

「ああ」
影の書記は短く答える。
「針が、勝手に重さを決めるようになった」
「人が決めるのではなく、秤そのものが」

ナギはぞくりとした。
アウステラの空席。
ルメアの記憶の溜まり。
そして、ここは秤の町。

――道具が、意思を持つ。
――空っぽが、勝手に埋めようとする。

「この町に、“空席”がある?」
ユイが聞く。

影の書記は、少しだけ首を振る。
「形は違う」
「ここにあるのは“空秤(からはかり)”だ」

空秤。
言葉だけで、冷える。

影の書記は続けた。
「空秤は、誰も乗せなくても針が動く」
「そして、動いた針に合わせて、人が裁かれる」
「重さは、もう“測る”ものじゃない。“押し付ける”ものになった」

ユイの表情が曇る。
「……それは、誰が作ったの?」

影の書記は答えなかった。
答える前に、計量所の奥の扉が開いたからだ。

黒い制服の人々が出てきた。
胸には秤の紋。
目は固く、声は低い。

「無量者を見つけた」
その声に、列の空気が凍る。

二人が視線を向けると、中央の秤台の前に、子どもが立っていた。
背は低く、汚れた服。
手には何も持っていない。
ただ、指をぎゅっと握りしめ、必死に耐えている。

係員が言う。
「申告できぬ者。分銅を持たぬ者。記録なし」
「無量と判定」

子どもが叫んだ。
「ちがう! おれ、ここにいる! いるって――!」

その声は途中で途切れた。
黒い制服の一人が、子どもの口元に布を当てたからだ。
そして別の者が、腰の分銅を外し、子どもの首にかけた。

カチン。

金属音が鳴った瞬間、子どもの目から光が抜けた。
泣き方を忘れたみたいな顔になる。

ユイが息を飲む。
「……記録で、存在を縛ってる」

「違う」
影の書記の声が冷たくなる。
「縛ってるのは、秤だ。――ここは、秤が王になった町だ」

ナギの胸で、花の蔓が勝手に疼いた。
怒りではない。悲しみでもない。
“重さ”が、勝手に乗せられたことへの拒絶。

「やめろ!」
ナギは思わず一歩踏み出した。

ユイが腕を掴む。
「待って、今出たら――」

遅かった。
黒い制服の目が、ナギを捉えた。

「無量者が、もう一人」
「秤に乗せろ」

二人に向かって、制服の者たちが歩いてくる。
人々は誰も助けない。
目を逸らし、分銅を握りしめる。
“軽い側”に落ちたくないからだ。

影の書記が低く言った。
「ここで抵抗すると、君たちは記録から消される」
「消されれば、助けてもらえない。誰にも覚えてもらえない」

ユイの指が鏡にかかる。
ナギの掌に、青い花が一輪、震えながら咲く。

「……じゃあ」
ナギが、ほとんど囁く声で言った。
「“消されない”戦い方をしよう」

ユイが頷く。
「うん。秤の外で戦うんじゃない」
「秤の“中身”を変える」

黒い制服の手が伸びる。
その瞬間、影の書記が一歩前に出て、紙束をばらまいた。

ばさっ、と白い紙が舞う。
床に散らばったのは、ただの紙ではない。
“記録の写し”だ。

「今ここにいる者を、書き直す」
影の書記の声が震える。
「軽いと裁かれた者を――“軽くない”と記す」

係員が叫ぶ。
「記録改ざんだ!」

だが、紙が舞ったせいで、秤の針が狂った。
カチ、カチ、カチ、カチ――
針が落ち着かない。

ナギは、その隙に花の蔓を伸ばした。
床の紙に触れた蔓が、青い花を咲かせる。
花は文字を傷つけず、紙同士を“結ぶ”。

「分けるんじゃない」
ナギは言う。
「つなぐ。ここにいるっていう証拠を、みんなで持つ」

ユイが鏡を掲げる。
鏡面に、秤の針が映った。
そして、針の“影”が、鏡の中で微かに笑った。

ユイの顔色が変わる。
「ナギ……針が、見てる」

針の影が、鏡の中からこちらへ伸びる。
まるで手のように。
空虚王の手に似ていた。
けれど、これはもっと冷たい。
“正しさ”の顔をしている。

――重さを与える。
――与えられぬ者は、無い。

鏡がきしむ。
ユイの腕が震える。

ナギは即座に蔓を絡め、鏡の縁に花を一輪咲かせた。
「ユイ、息を合わせて。分けるよ」

「……うん!」

二人の呼吸が揃う。
花の光が鏡を守り、針の影を押し返す。

だが、その一瞬の抵抗で、秤台の上の針が大きく跳ねた。

カン――。

鐘の音ではない。
秤が鳴った音。

計量所全体が揺れ、棚の分銅が一斉に鳴った。
人々が膝をつき、耳を塞ぐ。
子どもは首の分銅を握り、目に涙が戻りかける――が、すぐに消える。

影の書記が叫ぶ。
「外へ! 今なら、まだ“消される前”だ!」

ユイがナギの腕を引く。
「逃げるんじゃない。場所を変える!」

ナギは子どもの手を掴んだ。
「君、走れる?」

子どもは一瞬迷い、そして小さく頷いた。
「……うん」

三人と一人は、紙と砂と分銅の音の中を駆ける。
背後で、係員の声が追ってくる。

「記録を回収しろ!」
「無量者を捕らえろ!」

外へ飛び出した瞬間、砂の風が顔を叩いた。
遠くで、砂に埋もれた鐘が、鳴っている気がした。

ナギは振り返らずに言った。
「次は……秤の“心臓”を見つける」

ユイが息を切らしながら答える。
「空秤の中心。針を動かしてる場所」

影の書記が低く呟いた。
「“秤の井戸”だ」
「昔、ここにも掘られた。――空虚王の真似をした穴が」

砂の音が、さらに冷たく鳴った。

――対立は、もう始まっている。
記憶ではなく、正しさの名をした“重さ”との対立が。


(第5章・了)


第6章 秤の井戸

砂嵐は、町の外れで突然止んだ。
まるで、そこから先へは風も進めないかのように。

四人が辿り着いたのは、半ば砂に埋もれた円形の広場だった。
中央に、黒い石で縁取られた穴がある。
深く、暗く、底が見えない。

「……ここだ」

影の書記が低く言った。
「秤の井戸。サラ=ベルで最初に掘られた“空白”」

井戸の縁には、無数の刻印がある。
数字、線、記号。
どれも“測る”ための印だ。

子どもは、首にかけられた分銅をぎゅっと握りしめていた。
ナギは膝を折り、目線を合わせる。

「大丈夫。すぐ終わらせる」

「……おれ、重い?」
子どもは、かすれた声で聞いた。

ナギは、はっきりと首を振った。
「重さはね、比べるものじゃない。――分けるものだ」

子どもの目に、ほんの少し光が戻る。

ユイは鏡を掲げ、井戸の中を覗いた。
鏡面が、ゆっくりと歪む。

「……見える」
ユイの声が低くなる。
「空秤の“芯”。ここにある」

井戸の底に、巨大な秤があった。
誰も触れていないのに、針だけが動いている。
左右の皿は空。
それでも針は、片側へ大きく振れていた。

――測る。
――与える。
――決める。

音にならない声が、胸に直接響く。

「……空虚王と、同じだ」
ナギは呟いた。
「空っぽのくせに、勝手に決める」

影の書記が続ける。
「ここでは“座らぬ王”ではなく、“量らぬ王”だ」
「人が裁くのをやめ、秤に任せた結果だ」

その瞬間、背後で金属音が鳴った。

カチ、カチ。

黒い制服の人々が、広場を囲んでいる。
計量所の係員たちだ。
中央に、背の高い人物が立つ。

胸には、大きな秤の紋。
顔は見えない。
声だけが、冷たく響く。

「記録改ざん、秤への反逆、無量者の擁護」
「量れば、重い罪だ」

ユイが一歩前へ出る。
「量らない。――話す」

「話は不要だ」
人物は言う。
「秤は嘘をつかない」

ナギの胸で、花の蔓が強く疼いた。
彼は、井戸の縁に手をかける。

「嘘はつかない。でも――」
「“何も聞かない”」

ナギは、井戸へ降りた。

「ナギ!」
ユイが叫ぶ。

「大丈夫」
振り返らずに言う。
「ここは、僕の役目だ」

井戸の中は、静かだった。
音が消え、砂もない。
ただ、秤だけがある。

ナギは、秤の前に立った。
青い花を、そっと咲かせる。

「測るなら」
ナギは言った。
「分けよう」

花の蔓が伸び、秤の針に絡む。
だが、針は止まらない。
むしろ、激しく振れる。

――重さを与える。
――与えられぬ者は、無い。

「違う」
ナギは首を振る。
「与えるんじゃない。――持つ」

彼は、自分の胸に手を当てた。
これまで分け合ってきた重さ。
眠り、記憶、空席。
そのすべてが、ここにつながっている。

「一人で決めない」

ナギは、花を引き裂いた。
青い光が砕け、無数の花弁になる。
それらは秤の皿へ落ちず、針の根元へ集まった。

秤が、悲鳴のような音を立てる。

――針が、動かない。

地上で、ユイは鏡を強く掲げた。
鏡面に、井戸の中の秤が映る。
そして、その“影”が、初めて揺らいだ。

「返照(へんしょう)」
ユイは、静かに告げる。
「あなた自身を、見て」

影の中の秤は、空っぽだった。
皿も、針も、意味を失っている。

影の書記が、地上で紙束を広げる。
「記す」
「量られなかった日を。決めなかった時を」

紙に文字が走る。
それは罪でも、評価でもない。

《在る》

ただ、それだけ。

井戸の中で、秤が崩れ始めた。
石が砂に変わり、砂が風に溶ける。

「今!」
ユイが叫ぶ。

ナギは最後の花を、井戸の底へ植えた。
根は深く、やさしく広がる。

「秤は、井戸じゃない」
ナギは言った。
「庭だ。――通り道だ」

光が満ちる。
針は完全に止まり、やがて消えた。

地上で、黒い制服の人々が膝をつく。
分銅が、音を立てて地面に落ちる。

カラン、カラン。

子どもの首からも、分銅が外れた。
彼は大きく息を吸い、泣いた。

「……おれ、いた」

ユイはそっと抱き寄せる。
「うん。最初から、いたよ」

広場に、静けさが戻る。
砂の音は、もう冷たくない。

影の書記は、空を見上げた。
「……書かない日が、増えそうだ」

ナギは井戸から上がり、肩で息をする。
ユイが駆け寄り、支える。

「無茶する」
「分け合った」

二人は、短く笑った。

遠くで、砂に埋もれた鐘が鳴った。
今度は、はっきりと。

それは裁きの音ではない。
“ここにいる”と知らせる音だった。

町は、すぐには変わらない。
秤も、記録も、残るだろう。

それでも――
決めない場所が、一つ増えた。

ナギは広場を見渡し、静かに言う。

「次は……急がなくていい」

ユイがうなずく。
「うん。庭は、育つから」

風が砂を撫で、花の根を守った。

――重さは、量らない。
――在ることを、分け合う。

それが、サラ=ベルでの答えだった。


(第6章・了)


巻末エピローグ

在るということ

砂の鐘街サラ=ベルを離れる朝は、思ったよりも静かだった。

分銅を外した人々は、まだ戸惑っている。
秤は残り、記録も残ったまま。
けれど、広場の真ん中――かつて秤の井戸があった場所には、小さな変化があった。

黒い石の縁の内側に、青い芽が出ている。
砂の下から、ゆっくりと。

「……育つかな」

ナギが言うと、ユイは肩をすくめた。
「すぐには無理。でも、踏まれても折れないよ。根があるから」

二人は並んで立ち、芽を見下ろした。
風は乾いているが、冷たくはない。

少し離れたところで、影の書記が紙を畳んでいる。
白紙だ。
何も書かれていない。

「今日は、書かない」
彼はそれだけ言って、紙をしまった。

子どもは、町の入口で手を振っている。
首は軽そうだった。
名前を呼ばれ、振り向く速さも、昨日とは違う。

「……いってらっしゃい!」
その声は、秤に乗せなくても、ちゃんと届いた。

船に乗り込む前、ユイは鏡を取り出した。
映ったのは、砂と空と、芽吹いたばかりの青。

「未来、見えた?」
ナギが聞く。

ユイは首を振る。
「見なかった。――今日は、見なくていい」

ナギは笑い、掌に小さな花を咲かせた。
一輪だけ。
風に任せると、花は砂の町へ戻っていく。

「在るってさ」
ナギは言う。
「重さでも、記録でもなくて……ただ、残ることだと思う」

ユイは頷いた。
「残るし、変わる。結び直せる」

船が動き出す。
砂の音は遠ざかり、代わりに水の気配が戻ってくる。

次の港がどんな場所かは、まだ知らない。
鏡も、花も、答えを急がない。

それでいい、とナギは思った。

――重さは量らない。
――記憶は縫わない。
――空席には、花を。

船は進む。
分け合ったものを胸に抱いて。

旅は、まだ続く。


(第2巻・了)


あとがき(作者メッセージ)

この物語を書きながら、ずっと考えていました。
「人は、どこまでを一人で背負う必要があるのだろう」と。

悲しみ、罪悪感、後悔、忘れられない記憶。
それらは時に、重さとして人を沈ませます。
でも本当は、重さそのものが悪いのではなく、
一人で持たされることが、人を壊してしまうのだと思います。

『風葬の都に咲く花』の世界では、
眠りを分け、記憶を結び直し、重さを量らない選択が描かれます。
それは現実では簡単ではありません。
けれど、誰かと少しだけ分け合えたとき、
人はまた歩き出せる――
そんな希望を、物語に託しました。

この第2巻では、「正しさ」や「評価」が人を縛る怖さも描いています。
正しいことが、いつも優しいとは限らない。
だからこそ、判断を急がず、
庭のように、時間をかけて育てる場所が必要なのだと思います。

ここまで読んでくださったあなたが、
もし今、何かを重いと感じているなら――
どうか一人で量らないでください。
花を植える場所は、きっとあります。

次の旅でも、ナギとユイは迷い、選び直します。
それでも歩き続ける限り、物語は続きます。

読んでくださり、本当にありがとうございました。

次巻予告

『風葬の都に咲く花 Ⅲ ― 鏡の港ミラ=ノクス ―』

海が凪ぐ夜、
水面は未来を映す。

砂の町を後にしたナギとユイが辿り着くのは、
「可能性」を映す港――鏡の港ミラ=ノクス

そこでは、人々が“選ばなかった未来”を見て立ち止まっていた。
成功した自分。
救えなかった誰か。
別の選択をした世界。

鏡は嘘をつかない。
だが、真実は人を前に進ませるとは限らない。

ユイの鏡が、これまでよりも深く、
そして残酷に未来を映し始めるとき、
ナギは初めて問われる。

――見ない自由は、選べるのか。
――知ってしまった未来と、どう生きるのか。

記憶の次は、可能性。
重さの次は、選択。

結び直す物語は、さらに核心へ。

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