【SF小説】残響の鳴る輪

小説

第1章 残響の鳴る輪

 地球は、窓の向こうで青い沈黙を保っていた。
 オルビタル実験都市《アストレイア》――直径百二十キロの輪は、内部に街区と工房、試験管制を抱え、一定間隔で「カラン」とグラスを触れ合わせるような微細な音を鳴らす。失敗した跳躍の残響が、構造材を通って共鳴すると言われている。

「東雲、リンクはグリーン。跳躍窓、オープンまで三十秒」

 整備区画の灯が一本線で走り、試験機《リソグラフβ》の機体表面にオレンジの警告が染まった。東雲タクトはヘルメットを抱え、頬に貼りつく微細な汗の温度に、胃の奥がざわりと揺れる――因果律酔いの前兆だ。

「聞こえてる。……戻ったら、トースト二枚な」

 通信の向こうで、誰かが乾いた笑いをこぼす。タクトは薄く笑い、ヘルメットをかぶった。黒髪がヘッドバンドの下で押さえられ、左の眉の薄い傷がバイザーの影に消える。

 跳躍窓開放。
 計器の振れは許容内。
 そして、音が鳴った。

 カラン。

 それは本来、終わった跳躍の“余波”が鳴らすものだ。開始前に響くのは、おかしい。

「待て、ユイ。残響が――」

「観測済み。波形反転、発生源はあなたの機体じゃない」

 制御室からの声は、驚くほど落ち着いていた。望月ユイ。事故解析官。新任だが、噂は聞いていた。“確率を測って会話する女”。
 跳躍窓の内側で、空間がぶるりと震え、空気が水面みたいに波打つ。タクトの背骨が冷える。窓の内側に、別の窓が覗いた気がした――一度だけ失敗した任務の、あの瞬間。
 呼気が荒くなる前に、彼は意志で押し殺した。

「行く」

 機体は音もなく消え、そして半呼吸ぶんの無音を経て、同じ場所に戻った――はずだった。
 帰還直後、タクトの視界を裂くように赤色灯が走る。床のグリッド越しに、遠くの橋梁が「キィ」と軋む。反対側のハンガーで、保守班の若い技術者がひとり、宙に投げ出されそうになっていた。残響が、小さな局所重力のズレを作っている。

「跳ぶな、東雲!」
「もう跳ね返ったら手遅れだ!」

 タクトは操縦桿を離れ、ハーネスを外すと、機体のハッチを脚で蹴り開けた。無重量にほどけていく体を、壁の磁力靴で無理やり繋ぎ止める。耳の奥で、時の泡がはじける音がした。吐き気が喉までせり上がる。

「ユイ、重力ズレのベクトルを出せ!」

「送った。赤ラインが安全経路。――でも、あなたが跳んだら波形が複層化する」

「跳ばない。走る」

 タクトは赤いARラインに足を合わせ、手すりから手すりへと猿のように渡っていく。技術者の少年の喉が掠れ、虚空に伸ばした指が震えている。
 あと少し――その瞬間、床がくしゃりと折れた。重力の折り目が移動したのだ。少年が空中に舞い上がる。

 タクトは反射で片腕を伸ばし、もう片方の手で壁のアンカーを掴んだ。肩が焼けるほど痛い。
 腕に少年の体重――いや、体重と呼べない方向の力――が重くのしかかる。
 バイザー越しに、少年の目が見開かれる。タクトの脳裏に、あの日の声が重なる。
 ――隊長、戻らないでください。戻ったら、俺が死ぬ。

「ユイ! 折り目を、固定できるか!」

「できない。でも、ずらせる。『音』を鳴らす」

 次の瞬間、ハンガーの床下から、澄んだ音が連続して走った。
 カラン、カラン、カラン。
 ユイが施設の共鳴板を意図的に震わせ、残響に逆位相の波をぶつけているのだ。世界が、ひと呼吸ぶんだけ平らになった。

「今!」

 タクトは少年の胸ぐらを抱え、全身のスラスターを噴かした。磁力靴が火花を散らし、二人は安全側の手すりに叩きつけられる。遅れて、重力の折り目が壁を舐めるように滑っていった。
 タクトは少年のヘルメット越しに親指を立て、肩で息をした。喉に鉄と胃酸の味がする。因果律酔いが笑う。吐き気を喉で押し戻す。

「……無茶する」

 背から声。振り向くと、望月ユイがいた。短い濃茶のボブヘアがヘルメットの内側で揺れ、冷静で澄んだ目がこちらを測る。白衣の裾ではなく、灰色のジャンプスーツに薄いコートを重ね、その胸ポケットに差したペンが一本、無重量にふわりと浮いていた。左目の下に小さなほくろ。

「無茶を始めたのは、そっちだろ。あの音のトリック」

「トリックじゃない。残響を読み替えただけ」
 彼女は無線を切り、ヘルメットを外して冷たい空気を吸った。
「あなた、跳躍前から酔ってた。指先の震えでわかる」

「俺の酔いに確率があるのか?」

「ある。あなたが『やり直す』選択肢を視野に入れるほど、症状は強くなる」

 タクトは一瞬、笑ってから、笑っていないことに気づいた。ユイの目は、責めるでも慰めるでもない。ただ観測している。

「解析官。俺は、二度と同じ失敗はしない」

「知ってる。データでね」

 彼女は端末を出し、空中に投影する。青い線の網が、さっきのハンガーの地図を描く。その片隅に、微細なノイズ。

「これ、見える? 失敗跳躍の残響には“余白”がある。空白の、名前のないデータ群。さっき、それが増えた」

「何の話だ」

「あなたの失敗の“外側”に、誰かが触っている。――もしかすると、あなたがやり直そうとしている任務に、第三者が介入している可能性」

 喉が乾く。バイザーを外すと、冷たい空気が顔に貼りついた。
 彼の失敗――三年前の救難任務。戻った瞬間に別ルートで死んだ、部下。やり直そうとして、やり直したことで壊れた因果。
 ユイは視線を落とす。

「私も、やり直せなかった。兄を」

 その一言は、無重量でも重かった。
 ふたりの間に、地球の青が沈黙で広がる。

「……で、その第三者ってのは?」

「まだ確率が薄い。でも、名前を仮に付けた。『回収屋』。失敗の外側に落ちる“時間の切れ端”を、拾ってる誰か」

 タクトは笑いの形に唇を歪める。

「そいつに会えば、俺はやり直さなくて済むのか」

「会えば、あなたは多分――また選ばされる」

 アストレイアは、静かに一周分、鳴った。
 カラン。

「いいさ。選ぶために、俺はここにいる」

 ユイは短く頷く。
「なら、共同で追う。跳躍機と、残響の音の両方で」

 ハンガーの非常灯が一斉に消え、通常灯が戻る。遠くで救急ドローンが少年を回収していく。彼らの背後で《リソグラフβ》が静かに佇み、機体の継ぎ目から微弱な光が漏れる。その継ぎ目は、どこか“開いて”見えた。

「東雲」

「ん?」

「次に跳ぶとき、あなたが吐いたら、私が持ってる紙袋を使って」

「準備いいな」

「確率の問題よ」

 タクトは笑った。本当に、今度は笑った。
 遠く、どこか別の区画で、またグラスが触れ合う音がした。


第2章 音を喰う手

 アストレイアの輪内を、細い通路が血管のように走っていた。
 試験区画から四つ先の保守ラダーで、ユイは携帯端末を壁の導波板に押し当てる。淡青の波形が、彼女の眼鏡に薄く映った。

「残響の“余白”が移動してる。誰かが引っ張ってるみたい」

「回収屋、ってやつか」

「確率六四パーセント。――追うなら今」

 タクトは頷き、磁力靴のロックを外した。二人は無重量の通路を滑り、手すりから手すりへと、音もなく移動する。遠くから、輪のいつもの音――カラン――が遅れて届く。だがその音は、今日はどこか痩せて聞こえた。

 通路の先に、薄闇の空間が口を開ける。「供給区画I—7」。工事が中断されたままの空き区画だ。壁一面に配管とケーブルがむき出しで、中央には古いドッキングリングが鎖のように垂れている。
 そこで、音が鳴った。カラン。目の前ではなく、足下――いや、空間の折り目から。

「ユイ、位置は?」

「ここ。正面じゃない、脇に“ずれてる”。」

 彼女はポケットから指ほどの筒を取り出す。携帯共鳴子――施設の大きな共鳴板の、手持ち版だ。スイッチが入ると、空気が指先にまとわりつくような感覚が増幅される。

「三、二、一――」

 ユイが共鳴子を鳴らす。耳には届かない帯域の震えが、骨の奥で「チリ」と鳴る。空間の表皮がわずかに波立ち、薄い膜の向こうから、小さな何かが転がり出た。

 銀色の、穴あき硬貨のようなもの。
 回転しながら、カラン、と澄んだ音を一つ。

 タクトが手を伸ばした瞬間、区画の上方で影が動く。三人。黒いメッシュの覆面、手作りの慣性カッター。
 時間密売の走狗――スカベンジャーだ。

「良い音だな、試験屋」

 覆面の一人が笑う声は、電波ノイズを通したようにざらついていた。
「そのコイン、返してもらおう。依頼品でね」

 タクトはコインを指先で回しつつ、壁のアンカーに右足を引っ掛ける。ユイは共鳴子を胸元に戻し、目だけで周囲のベクトルを測っている。

「話をしよう。回収屋に用がある」

「用は向こうが選ぶ」

 スカベンジャーの一人が慣性カッターを起動した。円盤状の刃が無音で回転し、空気が焦げる匂いがする。
 タクトの舌に、鉄の味。因果律酔いの前触れが、神経に灯る。

「ユイ、ここで鳴らせるか」

「狙う帯域を指定して。あなた、やる気?」

「少しだけ近道を」

 タクトの左手首のブレースが、短距離跳躍のインターフェースを点灯させる。
 ――過去は近道じゃない、刃だ。
 自分で言った言葉が、喉に棘のように引っかかる。だが今は、切っ先が要る。

「一・二・三で。三で、右上の手すりへ」

「了解。帯域八・二キロで逆位相」

「一……二……」

 スカベンジャーが動く。
 タクトは「三」の前に消え、半呼吸の空白ののち、右上の手すりに現れた。胃が裏返る。視界が白い波で満ちる。
 ユイの共鳴子が、骨を撫でるように鳴った。
 空間の凹みが一瞬だけ「平ら」に戻り、スカベンジャーの刃の軌道が狂う。回転刃は壁をかすめ、火花が無音で散った。

「っ……!」

 タクトは磁力靴で手すりを蹴り、最前の男の胸部に体をぶつける。無重量の格闘は、剛力よりも角度だ。彼は肘をてこの支点にし、相手の慣性をずらして回転させ、カッターを自分の仲間に向けて“置いてくる”。二人が絡み合って転がり、その合間をユイの赤いラインが走る。

「右下、空き! 左、来る!」

 ユイの声に合わせ、タクトは二度目の短跳躍を刻む。吐き気が喉まで駆け上がり、視界がぐらりと揺れた。耳の奥で「カラン」と何度も鳴る。
 背後から伸びてきた腕を、ユイの共鳴子が弾いた。音の壁が、相手のバイザー内部に圧を作り、一瞬の眩暈を与える。彼女は相手の手首をつかみ、関節の向きを逆にして、丁寧に壁に貼り付けた。

「あなた、吐く?」

「後で……」

 最後の一人が、天井のグリッドの影に逃げる。タクトは追わない。代わりに、指先に挟んだコインを見せた。
「依頼主に伝えろ。回収屋に渡したい話がある。場所は――」

「言うな」

 ユイが遮る。眼鏡の内側で、その瞳が鋭くなる。
「彼らは“音”で辿る」

 彼女は共鳴子を低く鳴らした。区画の壁が、深い呼吸をするみたいに膨らむ。音が音を隠す。
 スカベンジャーたちは、撤退の合図を短く打つと、配管の陰に溶けた。

 静寂。
 タクトはゆっくりと息を吐く。胃の中のものが上がってくるのを、歯を食いしばって押し戻す。汗が額を滑り、左の眉の古傷がうっすらと熱を帯びる。

「……コイン、見せて」

 ユイが白い手袋で受け取り、ルーペをかざす。穴の縁に、極小の刻印。
 〈−Δt〉。負のデルタティー。時間の減算記号。
 そして反対側には、薄く擦れた署名。

 ――KAI.

「カイ?」

「人の名前か、コードか。……どちらにせよ、回収屋の“名刺”だね」

 ユイはコインを指先ではじく。空間に小さな波紋が生まれ、カランと鳴る。
 そのとき、区画の照明が一瞬落ち、非常灯が赤く灯った。輪の遠心制御に、短い乱れ。放送がかかる。

『全区画に告ぐ。試験区画Bの跳躍窓に異常な干渉。解析班は直ちに集合――』

 ユイとタクトは目を合わせた。
「干渉源、ここから三分先。コインの波形と一致する可能性、七二パーセント」

「行く」

 二人がラダーを抜けた先、薄暗いサービスブリッジに、影が立っていた。
 若い女の姿。短髪、薄い作業服。その輪郭は、空調の風に揺らぐ煙のように、時々、欠ける。
 女は首を傾げ、二人を見た。声は夜明け前のように細い。

「ねえ……これ、落とした?」

 彼女の掌にも、同じ穴あきコインが乗っていた。
 縁に、同じ署名――KAI。

 タクトが息を呑む。ユイはわずかに顎を引いた。

「あなたは誰?」

 女は答えず、代わりに懐から細い金属棒――音叉のようなもの――を取り出すと、軽く指で弾いた。
 カラン。

 瞬間、通路の端が遠ざかった。空間が、伸びる。
 タクトの視界が、また白に飲まれ――そして戻る。彼の足元の磁力靴が、予想もしない「床」を掴んでいた。先ほどまでの通路ではない。鉄骨が組まれた、別の橋梁。遠く、湾曲する窓の向こうに、地球が――少しだけ小さい。

 跳んだ。二人まとめて。
 女は静かに笑った。

「はじめまして。回収屋に伝える前に、私から言うね」

 ユイが一歩、前へ。

「あなたが、カイ?」

 女は首を横に振る。
「違うよ。わたしは“拾い屋(ピッカー)”。カイは――あなたたちが会いたがってる人。ここにいるけど、ここにいない」

 音叉が、まだ微かに震えている。空間の縫い目が、ほつれた糸のように見えた。

「その人に、会わせて」

 タクトの声が、乾いた喉から出た。
 拾い屋は瞳をすがめ、唇に薄い笑みを刻んだ。

「会えるよ。ただし、あなた、また“選ぶ”ことになる」

 輪の別セクションで、遅れて、音が鳴った。
 カラン。

 選択の音だった。


第3章 縫い目の市場

 拾い屋の鳴らした音叉が、まだ指先の骨をくすぐっていた。
 薄暗い橋梁の左右に、窓がゆっくりとカーブを描く。地球は、さっきより一回り小さい。ここは《アストレイア》の同心円の外側――公式マップに載らない保守リングだ。

「名前は?」とタクト。

「今は“ミナ”って呼ばれてる」
 拾い屋は肩を竦め、作業服のポケットからもう一枚、穴あきコインを取り出した。
「あなたたち、音で来た。だから音で案内する」

 ミナはコインを指で弾く。
 カラン――と鳴る前に、床のグリッドの目がほどけ、黒い亀裂が薄く走った。覗くのは真空ではなく、薄い霧と、吊られた金属片の林。
 彼女はそこへ、靴先からすべり落ちるように消えた。

「行く?」

「当然だろ」
 タクトはユイを見る。彼女は眼鏡越しに頷き、共鳴子を胸元で一度鳴らした。二人は裂け目へ降りる。

 落ちた先は、鐘楼の内側みたいな空間だった。
 細いワイヤーに、無数のコインが吊られている。どれも中心に穴があり、縁がかすれて、刻印は様々――〈−Δt〉、〈Δmem〉、数字列、署名。風はないのに、どこかから漏れる微振動で、コイン同士が触れ合い、低く高く、果てしのない音場を作っていた。

「……美術館か、納骨堂か」タクトが呟く。

「ここは“市場”」ミナが振り返らずに言う。「落ちた時間の欠片(ピース)を並べる場所。欲しい人が値札を見て、支払う」

「値札?」ユイが眉をひそめる。

「対価は、大抵似てる。君たちが思ってるより、ずっと軽くて、ずっと重いやつ」

 ミナはワイヤーの森の奥を指差した。
 そこに、椅子が一脚だけ置かれていた。椅子の上には、古いヘッドセット。コードは壁の暗がりへ続いている。

「座って、話して。彼は直接ここへは来ない。来ると、また何かが落ちるから」

 タクトが歩み出ようとしたとき、頭上の格子が閃いた。白い光点――監視ドローンの群れが、裂け目の“無許可使用”を検知したのだ。数は六。円盤に三枚の翼。ベクターファンの風が、コインの音場を乱す。

「まずい。庁の巡回パターンから外れてる」ユイが端末を覗き込む。

「近道の代償ってやつだな」
 タクトは磁力靴を強く踏み、左手首のインターフェースを起動する。「ユイ、帯域、どれだ」

「ここは共鳴が濃い。六・九キロで“吸音”、八・二で“返し”。あなたは……二手目で跳ぶ」

「了解」

 ドローンが散弾を広げる。無音のまま、空間に銀砂が舞う。
 ユイが共鳴子をひと鳴らし。音が音へ沈み、銀砂の軌跡が“遅くなる”。ドローンの姿勢制御が、微妙な遅延で狂った。

「今!」

 タクトは短距離跳躍で、最も低い個体の背へ割り込む。半呼吸の白。胃の裏を針金でなぞられる感覚。
 戻った瞬間、機体の整備ハッチを掴み、慣性を利用してねじる。ドローンが軌道を外れ、ワイヤーの林へ突っ込む――コインの雨が鳴った。
 カラン、カラン、カラン。
 金属雨の中を、タクトは二機目の機首を蹴り上げ、ユイの“返し”音で反対方向へリバウンド。三機目のセンサー部に自分のヘルメットを叩きつけ、内部基板を震わせる。

「吐きそうなら早めに言って」

「今は戦ってる!」

 ミナはといえば、音叉でワイヤーを二度、軽く弾いただけだ。そこだけ音が“無風”になり、散弾が吸い込まれるように消える。
 最後の二機が一斉に降下。タクトは身を翻し、だが跳躍のタイミングが半拍ずれて、視界がぎゅっと狭まった。――やばい。
 その肩を、ユイの手が掴む。彼女の共鳴子が耳奥に刺さるほどの鋭い一撃音を打つ。瞬間、ドローンのジャイロが同期崩壊を起こし、ふらついた機体が自分たち同士で衝突。火花が、音もなく散って消えた。

「助かった」

「統計上、今のはあなた一人だと、八割で怪我してた」

「残り二割は?」

「私が怒る」

 タクトが笑う間もなく、ワイヤーの森がふっと静まった。
 椅子のヘッドセットから、古い通信ノイズが滲み出す。
 ――ザ……ザァ……。

「掛けて」ミナが顎で示す。

 タクトは椅子に腰を落とし、ヘッドセットを耳へ。冷たい。耳介に古い海のような音が触れる。
 ユイが横で記録を回す。彼女の眼鏡に、青白い波形が走った。

『東雲タクト』
 声がした。性別も年齢も掴めない、よく研がれた刃のような声。
『やっと、直接の音が取れた』

「回収屋か。カイ」

『その呼び名は便宜上、正しい。あなたが落とした“余白”も、幾らか私が持っている』

 ユイが割って入る。「あなたが余白を作ってる可能性は?」

『観測の定義に依る。私は崩れた縫い目を縫い直す。縫うには糸が要る。糸は落ちている。私は拾う。――あなたは、買う?』

 タクトは喉を鳴らした。「何を」

『三年前、あなたが救えなかった部下。彼の“出発前の一分”を返す。それで、別の路へ乗る確率は上がる』

「対価は?」

 短い沈黙。ワイヤーに吊られたコインが一枚、ひとりでに揺れた。
『あなたの“傷”の由来を、差し出すこと』

 タクトは左の眉を無意識に撫でる。細い古傷。
「冗談だろ。傷なんてくれてやる」

『皮膚ではない。初めてその傷を手に入れた日の“感覚”。痛み、匂い、呼吸、言葉。――それは航法だ。あなたの選択を導く座標として、働いている。外せば、別人になるほどではないが……曲がる』

 ユイの指先が、タクトの袖を小さく引いた。
「ダメ。あなたの“刃”が鈍る」

『急かない。選択のテストを置く』

 ヘッドセットの奥で、遠い鐘の音が重なる。
『今、あなたたちの右の扉の先で、圧力弁が破損寸前。整備員が一人閉じ込められている。そこへ行けば、救える確率は五五。――ただし、私との回線は切れる。今ここで“余白”の取引に入れば、整備員は八割で死ぬが、あなたの任務の成算は上がる』

 タクトは立ち上がりかけて、ユイを見た。
 彼女は短く、しかし迷いのない目で頷く。「行こう」

 ミナが音叉を持ち直す。「扉まで、最短の縫い目を開ける。だけど一回しか持たない」

『選ぶといい、東雲タクト。あなたの刃がどちらを向いているのか』

 タクトはヘッドセットを外し、椅子に置く。胃はまだ揺れている。だが、足はもう動いていた。

「悪いな、カイ。俺は“今”からやり直す」

 ミナの音叉が鳴る。
 カラン。
 空間が割け、熱い空気と油の匂いが吹き込む。赤く点滅する小部屋。分厚い扉の向こうで、誰かが叩く音。圧力ゲージがじりじりと上昇する。

「ユイ!」

「逆位相、四・三キロ。あなたはバルブ。私はシール」

 タクトは跳ぶのをやめ、走った。ハンドルを掴み、体重をかける。筋が悲鳴を上げる。
 ユイの共鳴子が扉の隙間で鳴り、漏れる空気の位相を僅かに“滑らかに”する。
 ゲージが黄色で踏みとどまる。タクトの喉から、獣のような声が洩れた。ハンドルが一気に回り、圧が逃げ――扉が、開いた。

 整備員が膝から崩れ、ヘルメットの内側で泣き笑いをした。
 遠くで、コインがひとつ、ひときわ澄んで鳴った。
 カラン。

 タクトとユイは互いを見た。言葉はない。十分だった。

 戻ると、縫い目の市場は揺れていた。椅子の上のヘッドセットは、まだ温かい。
 ミナが視線で示す。タクトが装着すると、ノイズの奥で、カイが息を吐く音がした。

『なるほど。あなたの刃はまだ、現在に向いている』

「それが気に入らないなら、他所を当たってくれ」

『いいや。だからこそ、渡す価値がある』

 ヘッドセットの内側で、紙片が差し込まれるような感覚。ユイの眼鏡に、座標と時間が浮かぶ――
 〈Astraea_BetaGate/−00:01:12〉
 〈基準日:あなたの失敗任務の当日〉

『そこで待つ。私も、あなたも。試すのは一度だけだ』

 音が切れる。ミナが音叉を握り直し、口角を上げた。

「さあ、約束はできた。けど、一度だけ」

「十分だ」タクトは答え、ユイと目を合わせる。
 彼女は静かに笑った。
「吐き袋、持っていく?」

「確率の問題だろ」

「そう。あなたが“選ぶ”確率は、さっきより上がった」

 輪のどこかで、また音が鳴る。
 カラン。
 次の跳躍が、彼らの喉元まで近づいていた。


第4章 −00:01:12

 《アストレイア》試験区画B――通称ベータゲート。
 円環状の跳躍窓が三重に重なり、中心に向かって淡い青が吸い込まれていく。床は防振で浮き、壁の骨材には“音の血流”が通っている。
 タクトは喉を鳴らし、左眉の古傷に指を当てた。そこに、最初に血が滲んだ日の“感覚”が、いまだ針のように残っている。

「座標はここ。カイが置いたのは『当日の−00:01:12』」
 ユイが端末を投げ、空中に時刻が咲く。
 〈Astraea_BetaGate/ −00:01:12〉

「一度だけ。戻らなければ、そこで終わりよ」ミナが音叉を握る。彼女の輪郭は薄く、空気の模様のように揺れていた。

「カイは?」
「“聞いてる”。たぶん、全部」

 制御卓に非常用の物理キーが差さり、跳躍窓の歌が大きくなる。
 ――カラン、カラン。
 ユイは共鳴子を胸の高さで軽く鳴らし、音の波形を整えた。「位相は私が合わせる。あなたは、自分を保って」

「大丈夫だ。俺は俺だ」

 タクトがゲートの中心へ歩み出たとき、天井の桟橋に黒い影。
 規制局の白い紋章をつけた隊員が四人、無音のワイヤーで降りてくる。先頭の女がヘルメットのバイザーを上げた。切れ長の目、指揮官の静けさ。

「連邦規制局、臨時封鎖。——望月ユイ、東雲タクト。違法補助機構による跳躍の疑い」
 女は名乗った。「監察官、片桐ミサト」

 ユイが顎だけでタクトを止める。
「誤解です。私たちは公式試験の——」

「ミナ、姿勢」タクトが低く言う。
 ミナは一歩退き、音叉の先を床に触れさせる。ピン、と細い音が跳ね、床下の共鳴板がわずかに“滑る”。規制局の隊員が体勢を崩した。

「やめて」片桐が片手を上げる。「発砲しない。交渉の余地はある」

 タクトは眉をひそめた。
「じゃあ聞く。俺は今から“−00:01:12”へ行く。そこで一つ、やり直す。邪魔するなら、合図一つで跳ぶ」

「やり直して、誰を助ける。誰を殺す」
 片桐の声は平坦だった。
「選択は波及する。あなたの過去は、他人の現在よ」

 胃の奥がさざめく。因果律酔いが舌に鉄の味を置く。
 ユイが一歩、タクトの前へ出た。「監察官。あなたがここで止めれば、五分後、圧力弁が破裂して三人が怪我します。私たちが跳べば、それは回避される。確率は七一」

「未来視の真似事は嫌いよ、解析官」

「データです」

 短い沈黙。片桐は目を細め、タクトの左眉に視線を落とした。「その傷、見たことがある。——跳躍士の顔に、よくある」

「土産にはちょうどいい」

「捨てないで。人を生かしたり、止めたりするのは、そういう“古い感覚”よ」
 片桐は銃を下げた。「一回だけ。帰還後、全ログを提出してもらう」

 ユイが息を吐く。ミナが目を瞬いた。
 タクトは頷き、ゲートの中心でヘルメットを被る。

「東雲タクト、準備完了。望月ユイ、同期開始」
「帯域八・二、逆位相で窓を薄くする。吐いたら、私のせいにしていい」

「嬉しい提案だ」

 音が満ちる。
 ――カラン、カラ、カラン。
 世界が指先から剥がれ、白に煮立ち、胃が丸ごと裏返る。

     *

 戻った瞬間、匂いでわかった。
 燃えかけのプラスチック、冷却材の甘い気配、そして斜め上から降る焦げた埃。
 時刻表示が視界に重なる。〈−00:01:12〉
 三年前、救難任務の発艦直前。格納庫は同じ形で、微妙に違う色合いをしている。自分の機体《サルベージャ3》、整備員の掛け声、若い隊員の笑い——そして、その若い隊員の名札。〈瀬戸〉。

「隊長、今日こそ終わらせましょう!」

 瀬戸が笑う。これから、別ルートで彼は死ぬ。その分岐が、ここにある。
 タクトは喉を鳴らし、歩を速め——だが、足が止まった。耳の奥で、別の音がする。
 カラン。
 振り向くと、コンクリの柱の陰に、細い人影。ミナではない。輪郭はさらに薄く、影のようだ。手には小さな音叉。
 その影が唇だけで言う。『片桐、来る』

 警告と同時に、格納庫の上階の通路を白い影が駆ける。規制局の制服——三年前の彼女も、ここに?
 ユイの声がヘルメットに飛び込む。「タクト、予定外。カイじゃない干渉体——“エコー”の可能性。あなたの選択に寄生してる」

「対処法は?」

「選択を“鈍らせない”。迷うと、エコーが強くなる」

 タクトは瀬戸のもとへ駆けた。「瀬戸!」

「はい、隊長!」

「今日、右舷の補助配管——交換したか?」

「いえ、在庫待ちで……」

 タクトは工具箱をひったくり、瀬戸の肩を押す。「俺がやる。お前は残圧確認をやり直せ。二度」

「でも時……」

「命令だ!」

 瀬戸が走り、タクトは右舷のパネルをこじ開けた。中は——わずかに湿っている。
 そこへ、上階から片桐の声。「救難チーム、動作確認は規定手順を——」
 同時に、影のエコーが耳許で囁く。『傷を、置いていけ』

 左眉が熱く疼く。
 ユイの声が重なる。「こっちで音を鳴らす。あなたは“手”を動かして」

「わかってる」

 タクトは配管のクランプを外し、劣化したガスケットを引き抜く。指先に冷たい液が触れ、古傷の痛みが一瞬だけ“無い”ように感じた。
 ——ダメだ。これを外すのは、取引のあとだ。今は、選択だけ。

「ミナ、補助、できるか」
 返事は音だった。ピン、と透明な一撃。工具が指に吸い付く。
 新しいガスケットをねじ込み、クランプを締める。瀬戸が駆け戻ってきて、親指を立てる。

「残圧、正常! 隊長、やっぱり、今日いけます!」

 タクトは喉の奥で笑った。「よし、行くぞ」
 と同時に、天井の通路で片桐と視線が絡む。三年前の彼女は、まだ少し若い。同じ静かな目。
 彼女は頷いた。——見逃す、という合図。

 発艦サイレン。フロアの灯が流れる。
 タクトはコクピットへ滑り込み、背中のハーネスを締める。ユイの声がわずかに震える。

「タクト、成否五五から六二に上昇。エコーが弱ってる。——戻る窓は、あと三秒」

「充分だ」

 視界の端で瀬戸が手を振る。
 タクトはヘルメットの内側で、小さく告げた。「——生きろ」

 白が弾ける。
 胃が掴まれ、骨の中まで音で満たされ、世界がまた剥がれた。

     *

 ベータゲートに帰還。
 ユイが共鳴子で窓を縫い止め、ミナが音叉を逆さにして空気の皺を押し返す。片桐の部下が銃を上げかけたが、片桐が手で制した。

「ログは提出してもらう。——結果は?」

 タクトはマウスピースを外し、息を吐いた。
 格納庫の遠い残像の中で、瀬戸がヘルメットを小突かれて笑っていた。それが“今”の現実かどうか、確信はまだない。だが——胸の奥で、別の音がした。
 カラン。
 軽い、しかし初めての響き。古傷は、まだ熱い。

「やり直したのは、一分だ。足りないなら、次は——」

 ヘッドセット無しで、声が入り込んだ。カイだ。
『十分だ。選択は“方向”を変えた。あなたは支払いをまだしていないが、利息がつく前に進もう』

「対価なら、やらない。俺はこの傷を置いていかない」

『賢明だ。では別の支払い——“時間ではなく、音”を一つ、寄こして』

 ユイが眉を上げる。「音?」

『望月ユイ。あなたが初めて“解析”をやめて、ただ祈った日の一音。——それが欲しい』

 ユイの指が、小さく震えた。
 彼女はゆっくりと眼鏡を外し、目を閉じる。共鳴子を握りしめ、胸の前で一度だけ鳴らした。
 カラン。
 悲しみと、赦しの混ざった、透明な音。

 空間が微かに澄み、カイの声が遠のく。
『受領。次の座標を送る。——“あなたたちが最後に守る場所”だ』

 ミナがはっと顔を上げた。「市場(マーケット)……が狙われる」

 片桐が短く指示を飛ばす。「部隊を引く。私は同行する」

「いいのか、監察官」

「今は、止めるより縫う時」

 タクトはユイを見た。彼女は目を開け、静かに頷いた。
「行こう。音の縫い目が切られる前に」

 輪が、鈍く一周、鳴る。
 カラン。
 彼らは走り、音の方角へ向かった。


第5章 断たれる音、つながる刃

 縫い目の市場(マーケット)は、最初の一撃で「鳴らなく」なった。
 吊られたコインの林が一斉に震えるはずの空間で、音は綿で塞がれたみたいに吸い取られている。
 通路口に、黒い装備の一団。胸元には企業のロゴを削り取った跡、手には吸音フィールド発生器《ミュート・ケージ》、背面には細身の爆薬。先頭の男がヘルムを外し、灰色の瞳で笑った。

「はじめまして、市場の番人さん。清掃の時間だ」

 ミナが一歩、前へ出る。音叉の先で床を軽く叩く——だが、響きは四方の黒球に吸われて消えた。
 ユイが息を詰め、眼鏡の奥で計算する。「帯域、全部落とされてる……。ここは音が“死んでる”」

「なら、刃で行く」
 タクトは磁力靴を鳴らし、左手首のインターフェースを起動。短距離跳躍の準備灯が橙から白へ切り替わる。胃が先に文句を言うが、黙らせた。

「目標、ケージのコア。三時方向、四基」
 片桐ミサトが低く言い、規制局式の短銃を腰だめに構える。
「私は抑えに回る。東雲、前」

「了解」

 侵入者が拡声器を鳴らす。「抵抗しなければ、品物は少しだけ壊す。抵抗すれば、全部壊す」

「全部は壊させない」ミナの声は細いが、よく通った。

 最初の跳躍——白い空隙。
 タクトは吸音フィールドの縁を読み、ケージとコアの境界へ“滑り込む”。音が死んだ領域は、慣性の返りが鈍い。右足でポールを蹴り、男の手首へ肘を差し込み、コアの留め具をもぎ取る。
 無音の火花。ケージが一つ、凋む。

「一基ダウン」片桐。

「二基目、位置ずらす!」ユイが共鳴子を握り、鳴らす……はずが音は生まれない。代わりに、彼女は共鳴子を“叩いた”振動だけで手首に短い信号を刻み、自分の体をメトロノームにした。
 ——一、二、今。
 タクトがタイミングを合わせて跳ぶ。白。胃が裏返る。
 戻った瞬間に肩を入れ、ケージの三脚を蹴り砕く。侵入者が無音で罵り、刃を抜く。

 混線。
 音のない格闘は、悪夢だ。打撃の感触だけが骨を通じて届き、呼吸の浅さだけが時間を測る。
 タクトは一撃、二撃とかわし、相手の肩の向きを“置いてくる”。そこへ片桐の銃火——消音弾が静かに閃き、敵のケージ携行者を一人、壁に沈めた。

「三基目、奪取!」ミナが飛ぶように走り、音叉でコアをひと突き。微弱な倍音が、吸音膜の内側で“逃げ場”を作る。
 ユイがそこへ身体を投げ込み、コアを引き抜いて電源を反転させた。吸音が一瞬だけ返り、世界に針のような音が戻る。

 カ——ラン。

 侵入者の指が、耳へ無駄に伸びる。その一拍の“遅れ”に、タクトは四基目へ滑り込み、ブーツのかかとで電源接続部を砕いた。
 吸音が溶け、空間が一気に鳴り出す。コインの林が待っていたと言わんばかりに、低高の音場を重ねていく。
 カラン、カラン、カラン——!

「音を上げろ、ユイ!」
「八・二、逆位相で“返す”。」

 ユイの共鳴子が、今度ははっきりと歌った。吸音の残滓へ音を差し込み、侵入者の鼓膜と姿勢制御を狂わせる。隊の列が弛み、ミナの音叉が一点に鋭く突き刺さる。コアの残骸が火花を散らし、黒球が床に転がった。

「撤退!」先頭の男が叫ぶ。
 だが市場の縁の裂け目から、別の波が忍び込んだ——薄い影。輪郭が煙のように揺れ、指先に小さな音叉。
 エコーだ。選択に寄生する“影”。さっき三年前の格納庫で見たのと同じ気配が、ここまで来ている。

 タクトの左眉が熱を放つ。
 ユイが歯を食いしばる。「影は“迷い”を食う。——ミナ、あなたの選択を固定化して!」

 ミナは音叉を胸に当て、目を閉じた。
「私は、守る。拾ったものを、ここに置いていく」

 音叉が澄んだ高音を一つ。市場全体がその音に“合わせ”、無数のコインが同じ位相で鳴った。
 カラン。——カラン。——カラン。
 影の輪郭が荒れ、ほつれる。しかし、すぐに別の方向から声が落ちる。

『足りない。ひとつ、音が要る』

 カイの声。空間の縫い目から、乾いた風が吹いた。

「貸しはもう作らない」タクトは低く言う。

『でも支払うべき場所は、今だ。市場が切れれば、落ちる余白は戻らない』

 片桐が短く通達する。「外周側に二波目。二十秒で接触、四基のケージ増援」

 ユイが震えない声で答える。「なら——わたしの音をもう一つ」

 タクトが横を見る。彼女の眼鏡の奥で、黒い瞳が真っ直ぐだった。

「ユイ、それは——」

「祈った日の“一音”は渡した。今度は“怒り”の音。わたしの中で、まだ使える」

 共鳴子が握り直され、ユイは一歩前へ。
 深く息を吸い、胸腔の奥、骨の隙間にたまっていた熱を形にする。彼女が、叩く。
 カラン——ではない。
 濁りのない、長い、低い響き。コインの林が反応し、市場全体で“怒り”を受け止める器を作る。反響は吸音を穿ち、侵入者の第二波が踏み込む足場を崩した。四基のケージが起動の半ばで沈黙し、男たちの隊列が壊れる。

 影が、後ずさる。
 タクトはそこへ踏み込み、短跳躍を“削って”距離を詰めた。白い空隙を半拍に留め、刃のように使う。視界が白と青の縞で満ち、胃が捻れる。
 戻った瞬間、影の手首——に似た“場所”を掴み、言葉を吐く。

「ここは、俺たちの“今”だ。喰わせない」

 影が砕け、墨のように散った。
 侵入者の最後の数人が後退し、片桐の制圧が素早く終わらせる。ミナが音叉を伏せ、コインの林が一斉に息を吐いたように鳴り止む。

 静けさ。
 耳の奥に残ったのは、ユイの低い音の余韻。そして、遠くで一枚だけ鳴る、遅れたコインの音。

 カラン。

 カイの声が、乾いた紙をめくるみたいに戻る。
『よく縫った。市場は持ちこたえた。——では、最後だ』

「最後」タクト。

『《アストレイア》の輪が鳴る理由。その“鐘”を止めるか、鳴らしきるか。あなたたちが選ぶ。止めれば、余白は増え、私の仕事は増えるが、人は死なない。鳴らしきれば、余白は閉じ、跳躍は“正しく”なるが、誰かが片道で消える』

 片桐が目を細める。「鐘を鳴らす“片道”は、誰だ」

『誰でもいい。ただし、一人で足りる』

 ミナがこちらを見た。薄い輪郭が、先ほどよりも透けている。
「わたしは“拾い屋”。ここにいるけど、ここにいない。——多分、片道にちょうどいい」

「ダメだ」タクトは即答した。「お前が消えたら、市場は誰が——」

「市場は音で繋がる。人じゃない」
 ミナは微笑む。「それに、わたし、誰かの“余白”の寄せ集めかもしれない。なら、最後の一片を置く場所が必要」

 ユイがミナの手を握る。強く、しかし優しく。
「選ぶのはあなた。でも、私たちは“止める”選択肢も持ってる」

 輪が一周、鳴った。
 カラン。
 最終の選択が、彼らの前に立ち上がる。

「——次で、終わらせる」
 タクトは言い、ユイ、片桐、ミナと視線を結ぶ。
「鐘を鳴らすのか、止めるのか。“今”の刃で、決める」


第6章 鐘を鳴らす指

 《アストレイア》輪の芯へ向かうサービスシャフトは、凍った肺のように冷たかった。
 最深部――“鐘室”と呼ばれる空間。そこには鐘はない。代わりに、球殻の内側一面に、蜂の巣状の共鳴板が貼り巡らされ、中央に人一人が立てるだけの細いプラットフォームが突き出している。
 鳴るのは金属ではなく、時間だ。失敗跳躍の残響がここに集められ、一周ごとに“カラン”と輪を回す。

 片桐が周囲を巡り、手信号でクリアを出す。「敵影なし。だが、エコーが濃い。注意して」

 ユイは共鳴子を握り、唇で乾いた呼吸を整えた。ミナは音叉を胸に抱え、その輪郭がさっきより薄い。
 カイの声が、内壁のどこからともなく響く。
『選択の場にようこそ。鳴らすなら、中央のプラットフォームに一人。止めるなら、四方の結束ピンを外す。両方はできない』

「片道は、誰だ」タクトは繰り返す。

『立った者』

 ミナが一歩出かけ、タクトが肩で制した。「俺が行く」

「ダメ」ユイが即座に遮る。「あなたが消えたら、私は確率を信じられなくなる」

「じゃあ俺は信じられなくなる。お前が今ここで止まったら」
 言葉がぶつかり、音のない火花が散る。タクトは息を吐き、柔らかく続けた。
「俺は、あの一分でやっと前を向けた。刃は、今のために置く。……だから、ここも俺の役目だ」

 片桐が口を開く。「理屈はいい。方法を詰める。鳴らしきるとどうなる?」

『残響は畳まれ、余白は閉じる。跳躍は正しくなる。“鐘の子”は、輪の音に溶ける』

「戻れないのね」ユイの指が震えた。

『音は戻らない。響くだけ』

 ミナがユイの手に自分の手を重ねる。「ねえ、別のやり方があるかもしれない。“合唱”。一人の“片道”を、三人で割る」

「できるのか」片桐。

『規定外だ』カイは淡々と言う。『だが否定はしない。縫い目は、時々、規定外で繋がる』

 ユイが顔を上げた。「やる。帯域を三分割して同期させる。私が基本位相、タクトが跳躍相、ミナが市場の“音色”を載せる。片桐さんは外乱を切る」

「引き受ける」片桐が短銃のセーフティを外す。

 タクトはミナを見る。「本当にやるのか」

「うん」ミナは笑う。淡い輪郭のまま、ひどく確かな笑顔だった。「わたし、多分、誰かの余白。だったら、最後は“主旋律”に混ざりたい」

 四人は位置に散った。ユイが深呼吸し、共鳴子を胸元で構える。「——いくよ。三、二、一」

 第一撃。
 ユイの低く長い“基音”が、蜂の巣の壁に染み込み、空間の輪郭をやわらげる。
 第二撃。
 ミナの音叉が透明な光を放つ。市場のコインの音色が重なり、小さな鐘が無数に生まれては消える。
 第三撃。
 タクトは短距離跳躍を“音”として使う。白い空隙を半拍だけ開閉し、世界の心臓にリズムを刻む。胃が裏返り、骨がしびれ、古傷が熱を上げる。

 ――カラン。
 輪が応える。
 鐘室の床がむずかるように揺れ、プラットフォームの先端が遠くなる。エコーが寄ってきた。影の群れ。選択の迷いに寄生する黒いさざ波が一斉に手を伸ばす。

「来る!」片桐の銃が火を吐く。消音弾が影を裂き、ノイズがはぜる。それでも足りない。
 ユイの額に汗が滲む。「タクト、迷わないで!」

「迷ってない!」
 タクトは白い空隙をもう一つ刻む。視界がにじむ。胃の奥で鉄が溶ける。
 古傷が痛む――あの日の痛み、血の匂い、あの「やり直せない」感覚。
 それが、刃の角度を教える。

 プラットフォームの根元に、黒い影が絡みついた。ミナが音叉を立てて踏み込み、影の“喉”を突く。影が裂け、音が漏れた。
 ユイは共鳴子で基音を上げ、喉を焼くような高みへ運ぶ。「——ッ!」

 カイの声が低くなる。
『いい。もう少しで“鳴り切る”』

 そのとき、鐘室の天井がひしゃげる音がした。侵入者の残党が外殻を破ってドローン群を投下。翅のようなファンが旋回し、吸音ケージの簡易型が空中で展開する。

「私が出る」片桐が走る。
 跳んだ。ワイヤーに飛び乗り、ドローンの腹を蹴りつけ、片膝でハウジングを押し裂く。消音弾が近距離で二連。ドローンが墜ち、ケージが斜めに閉じかけ――ユイの音が弾かれる。

 基音が崩れ、エコーが勢いづく。
 タクトの喉が嗄れた。「ユイ!」

「だいじょうぶ、まだ持つ……っ」

 ミナがこちらを見た。輪郭が紙一枚ほどに薄い。
「最後の一打ち、わたしがいく」

「待て」タクトが叫ぶ。

 ミナは首を振る。「合唱だよ、隊長。一人で歌っちゃ、ダメ」

 彼女は音叉を逆手に持ち、プラットフォームへ駆けた。
 タクトも走る。白い空隙を半拍、もう半拍。胃が千切れそうになる。
 ユイが叫ぶ。「タクト、迷うな——!」

 踏み切る。
 タクトはミナの背中に届く寸前、自分の左眉の傷に指を当てた。
 痛みが、刃の角度をくっきりと描く。
 いいか、これは置いていかない。だが——分けることは、できる。

 彼は傷の“感覚”を、半分だけ手放した。あの日の匂い、耳鳴り、震える呼吸の片方を、ミナの音に重ねて渡す。
 ミナが振り返り、微笑む。受け取ったよ、という顔。
 彼女はプラットフォームの先端に立ち、音叉を振り下ろした。

 ユイが基音を張り上げ、喉の奥で血の味がした。
 タクトは白い空隙を最後のリズムとして打ち込む。
 ――三つの音がたたみかけ、鐘室が震えた。

 カラン。
 ——カラン。
 ————カラン。

 世界が、鳴り切った。

 影が一斉に蒸発し、蜂の巣状の壁が深い海のように静まる。
 共鳴板の全てが同じ位相で沈黙し、輪の音は、一度だけ、完全に止まった。
 無音。
 次の瞬間、小さく、小さく、“戻り音”が生まれる。
 それは鐘ではなく、呼吸だった。輪は、息を吹き返した。

 プラットフォームに立っていたミナの輪郭が、砂粒のようにほどける。
「ミナ!」ユイが駆け寄る。
 ほどけた粒子は消えず、鐘室の空気に淡く散って、薄い光の筋になった。
 その光が、笑った。

「大丈夫。これは消えるんじゃない。混ざるんだよ」
 ミナの声は、輪の壁全体からやさしく響いた。
「市場は、音で繋がる。わたしは、ここで鳴ってる」

 ユイは目を潤ませ、共鳴子を抱きしめた。
 片桐が銃を収め、帽子の庇に触れる。「見事だ」

 タクトは膝に手をつき、深く息を吐いた。胃の奥はひどく荒れているのに、不思議な静けさが胸に満ちる。
 左眉の古傷は、痛みの半分を失っていた。代わりに、輪の呼吸と同じリズムで、ほんの微かに脈を打った。

 カイの声が、遠くやわらかくなって戻ってくる。
『選択、承認。余白は閉じた。市場は生き、跳躍は正しくなった。——支払いは、受領済みだ』

「ミナは?」タクト。

『ここにいる。これから、あなたたちが鳴らす音の“合いの手”として』

 ユイが笑みを作る。「なら、私は毎日、少しだけ綺麗に鳴らす」

『それがいい。——さあ、あなたたちの“今”へ戻れ』

 鐘室の扉が自動で開き、外の通路の空気が流れ込む。遠く、輪の別区画から救急ドローンの羽音。市場に下ろされたシャッターの昇降音。人の早口。生活のざわめき。

 片桐が歩き出しながら振り向く。「ログは全部、出してもらう。だが、今日のところは——よくやった」

 タクトはユイの横に並ぶ。
「吐き袋は?」
「持ってる。けど、今日は使わないで」
「確率の問題か」
「ううん。願いの問題」

 二人は笑った。
 輪が、いつものように一周、鳴る。
 カラン。

 その音には、今日は確かにもう一人ぶんの“合いの手”が混じっていた。
 静かで、軽くて、どこまでも続いていく音だった。

――完。


主要キャラクター

東雲タクト(しののめ・タクト)/30

  • 役割:時間跳躍テストパイロット

  • 特徴:短距離タイムリープの名手。因果律酔い(吐き気・耳鳴り)と左眉の古傷を抱える。

  • 動機:3年前の救難任務で失った部下の「一分」をやり直す。

  • 性格:即断即決だが、自責を力に変えるタイプ。

  • 象徴:白い空隙(跳躍の半拍)/ヘルメット。

  • 名場面:市場防衛戦で“白い空隙”を刃のように刻む/鐘室で傷の“感覚”を半分だけ手放す。

望月ユイ(もちづき・ユイ)/29

  • 役割:事故解析官・因果律研究者

  • 特徴:残響波形の読み替えと“音の逆位相”操作が得意。眼鏡・短いボブ。

  • 動機:救えなかった兄の件を境に、「確率」を使って誰かの現在を守る。

  • 性格:冷静沈着だが感情は深い。必要な時だけ祈り、必要な場面で怒る。

  • 象徴:携帯共鳴子。

  • 名場面:ハンガー事故で“音”を鳴らし重力の折り目をずらす/市場で“怒りの音”を放つ。

ミナ(拾い屋/ピッカー)/年齢不詳

  • 役割:落ちた“時間の欠片”を拾い並べる市場の案内人

  • 特徴:輪郭がときおり薄れる“半在”の存在。音叉を携える。

  • 性格:軽やかだが芯は強い。自分を「余白の寄せ集めかも」と語る。

  • 象徴:穴あきコイン/音叉。

  • 名場面:市場で合唱の一員として戦い、鐘室で“合唱”の要となり輪に溶ける(以後は合いの手として響く)。

片桐ミサト(かたぎり・ミサト)/35

  • 役割:連邦時制裁庁・監察官

  • 特徴:銃と法の両方に精通。現場判断が早い。

  • 性格:冷徹に見えて、最後は“縫う”選択をする大人。

  • 象徴:消音弾の短銃/庁章。

  • 名場面:ベータゲートで一度だけ跳躍を許可/市場・鐘室で外乱を切る。

カイ(回収屋 “KAI”)/実体不詳

  • 役割:“余白”を回収・縫合する黒幕的協力者

  • 特徴:声と座標だけで介在。名刺は〈−Δt〉刻印の穴あきコイン。

  • 性格:取引主義だが、人の“今”を尊重する気配あり。

  • 名場面:タクトに「当日の−00:01:12」を提示/最後に市場と輪の存続を“承認”。

準主要・関係者

瀬戸(せと)/20代前半

  • 役割:タクトの元部下(救難チーム)

  • メモ:タクトがやり直した“一分”の中心人物。新しい選択で生存確率が上がる。

市場(マーケット)の侵入者たち

  • 役割:企業系の“清掃”部隊

  • 特徴:吸音フィールド《ミュート・ケージ》で音の戦場を無音化しようとする。

エコー

  • 役割:選択の“迷い”に寄生する影の干渉体

  • 特徴:音叉を持つ薄い人影として現れる。迷いが強いほど増幅。

舞台

オルビタル実験都市《アストレイア》

  • 概要:地球低軌道の巨大輪。跳躍機試験場と規制局が同居。

  • 特徴:失敗跳躍の残響が輪を一周するたびに「カラン」と鳴る。

  • 重要地点:ベータゲート(試験跳躍窓)/縫い目の市場(落ちた時間の欠片の並ぶ空間)/鐘室(輪の“呼吸”を統べる中枢)。

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