【SF小説】残響の鳴る輪 第二部『沈黙に割れる輪』

小説

続編『沈黙に割れる輪』

——「カラン」が消えるとき、記憶はどこへ落ちる?

第1章 無音の断片

 《アストレイア》は今日も一周を、いつものように鳴らすはずだった。
 カラン——のはずが、南東端のセクションだけ、音が抜け落ちた。地図上に白い欠けが浮かぶ。輪の呼吸が、そこで止まっている。

「“無音域(サイレント・パッチ)”。朝六時二十二分から持続。内部で小規模な記憶欠落が報告されています」
 管制卓で、望月ユイが短く言った。白いコートの胸ポケットには共鳴子。眼鏡の奥の視線は、数式と人の不安の両方を等しく見ている。

「鐘が治ったばかりでこれかよ」
 東雲タクトは肩を回し、フライトスーツのジッパーを上げた。左眉の古傷が微かに脈を打つ。輪の呼吸と、今は同じテンポで。

「私が外殻から観測する。タクトはセクション内で直接“音”を入れて」
 ユイがスリーブ型端末をタクトの手首に嵌める。「短跳躍は最少、半拍まで。無音域は迷いを増幅するから」

 片桐ミサトが現場チャンネルに入ってくる。「監察官片桐。現場の治安は私が押さえる。——先に言っておく、今回は味方でも撃つわ」

「物騒だな」
「“誰か”が輪の音を盗んでいるの。犯人が人間とは限らない」

 タクトはヘルメットを抱え、扉口で足を止めた。耳に、透明な音が届く。
 ——カラン。
 市場の方角から、柔らかな合いの手。ミナだ。輪に混ざった彼女の声は、いまも小さく彼らを見送る。

『行って。“無音”は、誰かの器用な仕事じゃない。裂け目だよ』

「裂け目?」
『音が“抜かれた”んじゃない。“そこだけ未来が息を止めた”みたいな形。たぶん——回収じゃなく“先回し(プリフェッチ)”。』

「先回し、ね」ユイが顎に指を当てる。「未来側から“余白”を先に確保している?」

『うん。カイのやり口じゃない。もっと荒い』

 名が出て、回線はふっと冷えた。回収屋KAI。ここ数日、連絡はない。
 タクトは息を吸い、ヘルメットを被る。「確認は現場でだ」

     *

 無音域の境界は、匂いでわかった。空調の風がそこだけ鈍い。
 足を一歩入れた瞬間、タクトは“思い出し損ね”を感じた。何を取りに来たのか、半拍ずれで曖昧になる。ヘルメット内のHUDに、ユイの赤い線が走った。

「迷ったら、私の声に合わせる。——三、二、一」

 ユイの共鳴子が鳴る。低く、短く。無音域の縁で、音が一瞬だけ踏みとどまる。
 タクトはその隙間へ体を滑らせ、手すりから手すりへ。
 通路の先で、作業員が壁にもたれて座り込んでいた。目が泳ぎ、涙の跡。手には落とし物を握っている。穴あきコイン——〈−Δt〉。だが署名は、KAIではない。
 細い筆記体で、〈A.M.〉。

「大丈夫か」タクトが膝をつく。

「……えっと。ここ、どこでしたっけ」
 作業員は自分で驚いたように笑い、すぐに眉を寄せる。「すみません、すぐ思い出します。すぐ、すぐ……」

「記憶の“つっかえ”です」ユイの声。「無音域で最近の出来事にだけ段差ができている」

 片桐の部隊が後方でロープを張り、一般人の流入を止める。
 ユイがタクトのサブHUDへ小さく座標を送った。〈無音の核:中央補機室〉。

「行く」
 タクトは作業員の肩を軽く叩き、コインを預かる。指に触れた瞬間、指紋のような冷たさが走る。KAIのコインと似て非なる、荒っぽい研磨。
 通路を折れ、補機室の扉を手で開く。中は薄暗く、循環ポンプの脈動が吸い取られている。
 そして——そこにいた。

 銀色の容姿端麗な人型ではない。
 床に膝を抱えた少年だった。紙のように白い顔、短い髪。耳には音叉のペンダント。彼はタクトたちを見ると、目だけで笑った。

「遅いよ。ここ、もう“音、なくなる”」

「君がやったのか」
「違う。ぼくは“拾ってる”。未来から先に落ちる音を。——名前? 呼び名なら“アマネ”でいい」

 ユイが囁く。「先回し(プリフェッチ)……!」

「あなたの後ろ盾は?」片桐の声は冷たい。「企業か、回収屋か」

 少年は首を振る。「違う。カイは“縫うひと”。ぼくは“ほどく”ひと。だって——」

 彼は胸の前で音叉を鳴らした。
 カラン、ではなく、乾いた“カサ”という紙の音。補機室の空気がうすくめくれ、通路の向こうの景色が半拍、未来へ滑った。
 タクトの胃が反射で強く縮む。白い空隙が勝手に開きかけ、ブレースが警告を出す。

「やめろ」
 タクトが一歩踏み出すと、アマネの瞳が細くなる。「だって、ここは間違ってる。鐘は鳴っちゃいけない。鳴ると、“エコー”が飢えるから」

 ユイが低く息を吸った。「エコー——迷いの影。あなたはそれを……餌に?」

「違う。ぼくは“飢えさせない”ように、先に食べてる。残響を。余白を。だから、記憶はちょっと君たちから借りる」

「借りる、で返す当ては?」片桐が一歩近づく。

 少年はタクトの左眉を見た。古傷が、輪の呼吸と同じリズムで脈打つ。
「その傷。半分、足りないね。こころの“座標”を削った。いいやり方。でも——君がいなくても、輪は鳴るよ?」

「俺がいないと、ユイが怒る」

「正解」ユイが即答した。
 そして、共鳴子を構える。「タクト。半拍だけ跳んで。時間を“返す”波形を作る」

「了解」
 白い空隙を、刃のように薄く刻む。ユイの音がそこに糸を通す。
 アマネの音叉が逆位相でぶつかる——空間の皮膜がビリ、と鳴った。

「危険!」片桐が腕を伸ばし、二人のあいだにケーブルを投げ込む。床から立った磁気杭がアマネの足首を絡め、少年はよろける。
 タクトはその隙に踏み込み、音叉を掴んだ。
 アマネは抵抗しない。ただ、目だけを大人のように冷たくした。

「君たちが鐘を鳴らしたから、ぼくは生まれた。止めるなら、また誰かが片道で消える。——それでも?」

 ユイの手が震えた。答えを急がせない静けさが、無音域に広がる。
 ミナの合いの手が、遠くかすかに響いた。
 カラン。

 タクトは少年の手からそっと音叉を外し、代わりに自分のコインを握らせた。〈−Δt/KAI〉刻印の古い方だ。

「返せるかは、いま決める。お前を連れていく。話は鐘室でだ」

 アマネの瞳が、幼い形に戻った。迷いが、ほんの少しほどける。

「……鳴らすの?」
「鳴らす前に、ちゃんと“聴く”。それが俺たちのやり方だ」

 片桐が頷き、拘束を緩める。「保護対象として移送する。ユイ、無音域の縫合は?」

「可能。ですが——“先回し”の癖を学ばないと、また開きます」
 ユイはタクトと目を合わせた。「鐘室へ。ミナ、道案内を」

『了解。いまの“無音”は、きっと誰かの未来の靴音。——なら、いまここでリズムにしてあげよう』

 輪は、不揃いの息を一つ吐いた。
 カラン。
 次に鳴るとき、なにが“先に”落ちるのか。彼らは確かめに向かった。


第2章 先回しの手

 鐘室へ向かうサービスシャフトは、工学的な静けさに満ちていた。
 アマネは保護用の軽い拘束バンドを手首につけられ、素直に歩いた。歩幅は小さい。足音は——しない。彼の周囲だけ、空気が音をつまんでポケットにしまっていく。

「痛くない?」ユイが問いかける。

「うん。君たちの音はやさしいから、あまり取れない」

「取らせるつもりはない」片桐が前を歩きながら振り返らずに言う。「ここから先、何か“先に落ちる音”を拾ったら申告。拾い癖は事故だ」

 アマネはこくりと頷いた。
 タクトは横目で少年を観察する。白い頬、体温の薄さ、ペンダントを失った胸元に残る金属の円い跡。耳の軟骨に、細い傷。音叉がよく当たっていた場所だ。

「どうやって“先回し”してる」
 タクトの問いに、アマネは指を組んで見せる。

「こう。時間は、編み目。ぼくは、一本だけ先に引っぱるとこだけ、わかる。引っぱると、そこに“余白”ができる。余白は——君たちが言う“カラン”の食べ物」

「誰に習った?」
「誰にも。鳴ってるから。ぼくの耳の中で、いつも」

 ミナの合いの手が、通路のずっと奥でそっと鳴った。
 カラン。
 アマネはその音にだけ、はっきりと目を見張る。

「……いた。やっぱり、君はいる」

『うん。わたし、ここにいるよ』
 ミナの声が、壁一面から蜜の匂いみたいに滲んだ。『はじめまして、アマネ』

「名前、知ってる?」

『君がコインに書いた“ A.M. ”、見たから。かわいい字』

 少年は頬を赤くし、すぐに無表情に戻した。
 やがてシャフトは開け、鐘室に通じる円形扉が現れた。先日の戦いの傷跡は、きれいに縫い直されている。蜂の巣状の共鳴板が、金色の薄皮のように光った。

 入室と同時に、空気の温度が一度だけ上下した。
 ユイが短く息を継ぐ。「アマネ、ここで“先回し”をしないで。波形が壊れる」

「しない。ここは、ぼくでも怖い」

 中央のプラットフォームに立つ代わりに、周縁の保守デッキへ回る。片桐が外殻センサーを確認し、侵入者なしと手信号。
 タクトはアマネをデッキの縁に座らせ、正面にしゃがむ。

「なあ。お前、なんで“鳴っちゃいけない”って思った」

「鳴ると、影が増える。エコー。ぼくの街で、たくさん見た」

「街?」ユイの眉が寄る。「《アストレイア》じゃない?」

 アマネは首を横に振る。「同じ形の輪。ちょっと小さい。ぼくがいたとこでは、鐘はいつも鳴らなかった。だから影は飢えて、ゆっくり人を食べた。食べられる前に、ぼくは“先に”取ることを覚えた。取ると、影はだまる」

 片桐が静かに息を吐いた。「平行輪……あるいは、閉じそこねたループの残骸」

「どのみち、ここはここだ」タクトが言う。「俺たちは鳴らして、ミナが混じって、輪は呼吸を取り戻した」

 そのときだ。ヘッドセットもなしに、乾いた声が空気を割った。
『——確認。鐘室の外周、位相安定。内部、ノイズ源一点』

 カイ。
 全員の視線が壁へ散った。音源はない。声は、蜂の巣の全体でいっぺんに発せられている。

「呼び出してないのに、来る」片桐が皮肉を混ぜる。

『無音域が生じた。私の仕事の相手だ。——少年、音叉を取り上げられたな』

 アマネは肩をすくめた。「あなたが“縫う”ひと?」

『便宜上、そう呼ばれる。私は“抜けた糸の数”を減らす。君は“先に引く”。役目が逆だ』

「じゃあ、あなたが縫ってるから、ぼくが生まれた」
 アマネは小さく笑った。「矛盾だよ」

『よくある。宇宙は、よく、そういう冗談を言う』

 ユイが割って入る。「カイ。無音域の成因は“先回し”。観測上、アマネの操作は粗いけれど、意図は“防衛”。影を飢えさせないため」

『評価は保留。——だが鐘室で試す価値はある。ユイ、位相を下げて“聴診”モード。東雲、半拍の跳躍でマーカー。少年、掬い取りすぎるな。君の器は小さい』

「知ってる」アマネは足をぶらぶらさせた。「すぐいっぱいになる。だから、返したい」

「返すなら、約束して」ユイが目を覗き込む。「取り過ぎたら、私の合図で止める」

「うん」

 ユイが共鳴子を胸元で構えた。「——始めます」

 低い基音が鐘室に流れ、蜂の巣の壁が呼吸を合わせる。
 タクトは白い空隙を、刃の背で撫でるように刻む。跳躍ではなく“半拍の印”。胃はきしむが、まだ許容。
 アマネは、指先で空気の端をつまむ仕草をした。何もないはずのところに、薄紙の角が生まれる。彼はそれを一枚だけ少し引く。

 ——空気が“軽く”なった。
 ユイの波形が一瞬だけ欠け、すぐに補正が入る。「今の、返せる?」

 アマネはうなずき、その薄紙を押し戻す。紙は空気に溶け、波形の欠けは消える。
 片桐が短く拍手した。「テストは通った。——だが」

 だが。
 鐘室の上部、ほとんど見えない高さで、黒い点が生まれた。点はすぐに線になり、線は薄い“ひと”の形を取る。
 エコーだ。迷いの影。
 今度のそれは、いつもより“滑らか”だった。まるで事前に磨かれた刃のように、輪郭が曖昧ではない。

「……濃い」ユイが低く言う。「誰の迷い?」

 タクトの舌に鉄の味が広がる。古傷が脈を早める。
 影は、プラットフォームの先端へ手を伸ばした。
 ミナの合いの手が、張り詰めた糸の上で震える。
 カラン。

『ユイ、基音維持。東雲、半拍を短く、二連。——少年、触るな!』

 遅かった。アマネは反射的に指を伸ばし、“先に”影の指を摘まもうとした。
 影は紙のように裂け、逆にアマネの指に絡みつく。少年の目が見開かれ、白い頬がさらに白くなる。

「放せ!」タクトが踏み込み、白い空隙を刃にして影の“肘”を叩き切る。
 影の破片が黒い墨になって飛び散り、蜂の巣に吸い込まれる——はずが、一部が床に残った。粘性のある闇。
 ユイが息を呑む。「残渣が、残る……?」

『まずい』カイの声に、珍しく焦りが混じった。『“先回し”で削った波形のカケラが、影に核を与えた。残る影——“沈黙片(サイレンス・フラグ)”だ』

「つまり、影が“固まる”」片桐は即座に理解し、銃口を下げて狙いを定める。「破壊可能?」

『可能。だが遅いと広がる』

 アマネが肩で息をしながら呟く。「ごめん。ぼく、先に触っちゃ……」

「いい」タクトは短く言い、沈黙片へ足を向ける。
 床に残った闇は、触れる前に“吸う”ように形を広げた。靴底の縁が闇に触れた瞬間、タクトの胃がぎゅっとつかまれる。記憶の端が、ぐらりと揺れた。

「ユイ!」
「わかってる——返す!」

 ユイの共鳴子が、沈黙片の縁で連打される。低音と短い反射音の編み目が、闇の“周波数”に噛み合う。
 タクトは半拍の印を二連、三連と刻み、闇を“切り分ける”。
 片桐の消音弾が正確に、切り分けられた小片の中心へ一つずつ。
 ミナの合いの手が、切断面を固めるように薄く鳴った。

 カ——ラン。
 闇が、音に溶けた。
 鐘室に、重い息が戻る。

 アマネは膝を抱えて座り直し、額を押さえた。「ごめん。ほんとに。ぼく、いつも先に触っちゃう。そうしないと——」

「飢えが来るから、だろ」タクトが言葉を継ぐ。「わかる。だがここでは、合図で動け。俺たちは“合奏”でやる」

 少年はおずおずと頷いた。
 ユイは彼の指先を確認し、小さな擦り傷に絆創膏を貼った。柄は子どもじみた宇宙船。アマネはそれをしげしげと眺め、初めて年相応の顔で、小さく笑った。

『一次対応、良好』カイが結語する。『だが沈黙片は他の区画にも発生した可能性がある。——少年、君の“先回し”は制御できる。条件がある』

「条件?」

『“先に引く”とき、同時に“返す座標”を決めろ。無作為に引けば、影に芯を与える。返す先は——輪の呼吸、あるいは、ミナの“合いの手”だ』

『受けるよ』ミナの声が暖かく広がる。『返し先に、私の声を置いて』

 アマネは唇を結び、深く頷いた。「わかった」

 片桐が通信を整理する。「作戦更新。アマネは保護下の“補助観測員”。ユイが指揮。東雲は刃。私は外乱制圧と沈黙片の処理。——無音域の残りを潰しに行く」

「行こう」タクトが立ち上がる。左眉の古傷が、輪の呼吸と一緒に、穏やかに脈を打っていた。
 その鼓動に重ねて、遠くの市場から一音。
 カラン。

 合図はそろった。
 今度は、先に触らない。先に、聴く。
 合奏の足取りで、彼らは鐘室を後にした。


第3章 無音の地図

 無音域の掃討は、地図の塗り絵みたいに単純ではなかった。
 ユイが作った可視化レイヤは、輪の見取り図に「音の濃淡」を重ねる。ところが、パッチは円形でも楕円でもない。糸くずのようにほつれ、時に細い筋となって連なっている。

「……地形じゃなく“記憶の流路”に沿っている」ユイが眉間に親指を当てた。「通学ルート、通勤動線、避難訓練の経路。人が“無意識に歩く道”が薄く抜けてる」

「喰い方が効率的だ」片桐が顎を上げる。「影が飢えないよう、少量を広く先回しする。人に気づかれにくい範囲で」

「ぼくじゃない」アマネが小さく抗弁する。「ぼくは点だけ。線にはしない」

「わかってる」タクトは肩を軽くぶつけてやる。「だから線にした“誰か”を止める」

 次の現場は外殻に近い整備トラスだった。
 巨大な弧の内壁に張り出した足場は、地球の青を間近に見せる。風はないのに、無音域の境界では髪の毛先が微かにささくれる。
 そこに、沈黙片が「生えて」いた。黒い苔が、手すりの根元から樹状に広がっている。光を飲み、色を鈍くし、作業灯の輪郭が薄く欠ける。

「樹状化……“沈黙樹(サイレンス・ツリー)”」ユイが吐息とともに名付ける。「広がる前に剪定する。返し先はミナ」

『受ける。枝の切り口、きれいにして』
 市場の方角から、合いの手がやわらかく響く。
 カラン。

「俺が幹へ入る。片桐さん、周囲のドローンを抑えてくれ」
「了解。東雲、跳躍は半拍二連まで」

「了解」
 タクトはブレースの白い点灯を指先で撫で、半拍を刃の背で滑らせた。視界が白くまたたくたび、胃が訴える。無視。
 沈黙樹の幹の“濃い芯”に指先が触れる寸前、黒がにゅるりと指を飲もうとする。
 ユイの短い一打。低い基音が足場に走り、黒の膜が一瞬だけ“硬化”する。
 その固まりを、タクトが肘で割る。破片は無音で散るが、散った先でミナの合いの手が受け皿になり、銀に近い淡い音へと変わる。

 カ——ラン。

 片桐の短銃が、樹の陰から覗いた小型ドローンのレンズを正確に抜いた。もう一機。もう一機。
 アマネは足場の端に座り、両手を胸の前で重ねる。指のすき間から見えない“薄紙”を一枚ずつ摘んでは、ユイの合図で戻す。
 呼吸のうち、二つめの枝の切断がうまくいった。三つめ――タクトの視界が、ふっと欠けた。

 瀬戸が手を振る……像。
 違う。三年前の匂いが、薄く滲んだ。
 古傷が脈を上げる。胃が裏返り、白い空隙が勝手に口を開ける。

「タクト、戻って!」ユイの声が鋭い。「今跳ぶと、記憶がごっそり持っていかれる!」

 タクトは歯を食いしばり、跳躍のトリガを切った。白は開かず、視界は鈍い色のまま耐える。
 沈黙樹の新しい芽が、そのためらいにすかさず伸びた。
 片桐が飛び込んで、肘で芽を押さえ込む。黒が彼女の袖に移り、布地が音もなく“薄く”なる。

「片桐!」
「かすっただけ。まだ保つ」

 ユイは共鳴子を握り直し、低く囁く。「怒りの音、使う」

「待て、消耗が大きい」タクトが制した。
 彼は一拍だけ目を閉じる。
 ミナの合いの手が遠くで震え、輪の呼吸が胸の内側で整う。
 ——迷うな。
 古傷の半分だけ残っている痛みが、角度をくっきり示す。

「アマネ、今だ。“返す座標”を先に置け。返し先はミナの声、その上にユイの基音。俺は切る」

「うん」
 少年は頷き、指先で見えない地図に点を打つ。返す先の“印”。
 ユイが基音をわずかに上げ、ミナが受け皿をひろげる。
 タクトは半拍の刃を二連、幹の芯を斜めに切る。白い眩暈。吐き気。指先のしびれ。
 黒が一気に弾け、音が、戻る。

 カラン。

 沈黙樹は萎み、足場の端でただの“煤”になった。片桐の袖の薄さも、ゆっくりと元に戻る。
 ユイが肩を落とし、息を整える。額の汗は冷たかった。

「大丈夫?」タクトが覗き込む。
「うん……今のは怒りじゃなく、怖さだった。兄のときに似てたから」

 ユイは笑ってみせる。が、目の焦点が半拍だけ遠のいた。
 アマネがそっと近寄り、ポケットから何かを出す。穴あきコイン。〈A.M.〉の拙い刻印。彼はそれをユイの手に乗せた。

「借りもの、返す。ぼくの分は、ミナが持ってて」

 ユイは目を見開き、すぐに表情を解いた。「ありがとう。……返し先、覚えた?」

「うん。返す場所を先に決めると、怖くなくなる」

「そうだ。“先回し”じゃなく、“先返し”だ」タクトが笑う。

 そのとき、ユイのHUDに赤い線が奔った。
 セクションC—12。無音域の新規発生。形状は……円。
 しかも、完璧な円。

「まずい」ユイが息をのむ。「人の動線じゃない。機械が“描いた”形だ」

『位置、確認』カイの声が重く落ちる。『——《縫い目の市場》の真下。基礎梁の交点だ』

 ミナの合いの手が一瞬、震えを失った。
 カラン、ではなく、空気が喉でつかえたような“無声”。

『ごめん。ちょっとだけ急いで』ミナの声が戻る。『下から“抜かれてる”。市場の吊りワイヤーに、力の流れがなくなる感じ』

「誰がやってる?」片桐が移動しながら問う。

『円のきれいさからして、人の手じゃない。自動制御——あるいは、誰かが“鐘室のプロトコル”を盗んで使ってる』

 タクトは足場の固定を外し、地図を一瞥して言い切った。「行く。市場を落とさせない」

「賛成」片桐が短く言う。「C—12へ急行。私は上から封鎖、ユイは下の“返し先”を構える。アマネ、絶対に合図なしで触るな」

「うん、触らない。……合図で、触る」

 四人は一斉に走りだした。
 通路に入る直前、タクトは振り返り、外の青に目を細めた。輪の影が地球の雲海に落ち、その境目にはっきりとした線が走る。
 美しい、完璧な円。
 それは、意志を持った無音の刃だった。

 市場は、いま、黙っている。
 カランは——次に、鳴るのか、鳴らないのか。

 答えを急がせる足音に、四人分のリズムが揃った。
 刃は、“今”へ向いている。続きは、そこで決める。


第4章 円の底で

 セクションC—12の基礎梁は、都市の背骨だった。
 《縫い目の市場》の真下——鉄骨の交点を囲むように、完璧な円が描かれている。そこだけ、音が消えていた。
 作業灯の光輪は 円 の縁で刃物のように切り取られ、埃は境界で速度を失い、浮いたまま止まる。
 ユイが共鳴子を鳴らす。低い基音が床を撫で、戻り音はない。「完全な“無響”。……自然ではありえない。誰かが“鐘室の式”を盗んで、加工した」

「吊りワイヤーの張力が落ちてる」片桐が梁をまたぎ、測定器を覗く。「市場、上から抜けるぞ。二十分で“撓み”が限界」

『いま、上で補助吊りを回してる。けど長くは持たない』ミナの声が震え、すぐに落ち着いたトーンへ戻る。『下の円、切って』

 アマネは円の縁にしゃがみ込み、指先をぎゅっと握った。「……きれいすぎる。ぼくの“先回し”じゃ、こんな線は引けない」

「機械の手口だな」タクトが視線を走らせる。基礎梁の影に、薄い箱形のユニットが四つ、円周上に等間隔で取り付けられている。「発信機か?」

 ユイが一つにケーブルを差し、眉を吊り上げる。「“鐘室プロトコル”の劣化コピー……待って。署名がある」

「誰の」片桐。

 ユイの喉が細く鳴った。「“KAI”——の偽物。波形の癖が違う。誰かが名を騙ってる」

『偽物の“縫い目”。最低だね』
 カイが、それに応じるように、乾いた声で割り込む。『私の名で“抜く”とは。礼儀が悪い』

「犯人の当たりは?」タクト。

『企業の研究サブネットから数日前に鐘室プロトコルへの不正アクセス。発信源は——規制局の内部端末経由』

 片桐の目が細くなる。「内部協力者……。後で追う。今は円だ。割る」

「やり方は三つ」ユイが指を立てた。「一、ユニットを破壊して無音場を崩す。ただし、局所的に“沈黙片”が噴き出す可能性。二、“返し先”を先に構築し、円の内側から音を満たす。三、発信波形の位相を上書きし、偽プロトコルを乗っ取る」

「三は?」片桐。

「リスク大。乗っ取りに失敗すると、鐘室側に逆流して全輪に波及。——私は二を推す」

「賛成。返し先は?」タクト。

『私の声をベッドに。基音はユイ、縁の返しはミナ』カイが淡々と配役を告げる。『少年、君は“ぜったいに触らない”。触るなら、合図のあとで、縁だけを“なぞる”』

「うん。触らない」アマネは膝を抱え、息を詰める。「合図まで、待つ」

 片桐が周囲に目を走らせて短く言う。「敵影なし——いや、待て」

 円の反対側の影が、ふ、と薄く揺れた。
 人影。墨色。エコー——だが、どこか“固い”。皮膜がすでに硬化し、鈍い光を吸って輪郭を保っている。

「沈黙片が“ヒトの形”まで成長」ユイの声が強張る。「固まりかけた影——“像(スタチュー)”」

「はじめるぞ」タクトが深く息を吸う。「ユイ、基音。ミナ、受け皿。カイ、床を貸してくれ」

『どうぞ』

 ユイの基音が響く。鐘室の式を薄く引き延ばした“呼吸”が、梁にまとわりつく。
 ミナの合いの手が、上から薄い銀の雨のように降る。
 タクトは円の縁に足を置き、半拍の“印”を、外へ、内へ。白い空隙が瞬き、吐き気が喉の奥に針金を通す。
 円の内側にはじめて“反射”が生まれ、埃が一粒、落ちた。

 カ——ラン。
 音は極小。だが確かに、戻った。

 沈黙の像が、ぴくりと首を向ける。
 片桐が即座に撃つ。消音弾が像の目の位置を貫き、黒い粉が舞う。像は倒れない——内部に支柱があるみたいに、硬い。

「ユニット側からも押し返してる」ユイの歯が鳴る。「位相、もう一段!」

 アマネが震える指で、空中に“返す座標”を描いた。「返し先——ミナ、ユイ、カイ」

「よし、合図」タクトが叫ぶ。「今、縁をなぞれ!」

 アマネは指の腹で、円の内側の“端”だけを撫でた。
 薄紙が一枚、静かに戻る。
 円の縁に微小な亀裂が走った。

『いい子』カイの声が珍しく柔らかい。『続けて』

 像が、円から出ようと一歩踏み出す——境界で足が震えた。
 その瞬間、頭上で“カサ”という紙の音。
 小型ドローンの群れが影から吐き出され、ユニットへ新しい波形パッチを送ろうとしている。

「私が行く」片桐が柱を駆け上がり、ドローンの腹を蹴り裂く。宙返り、二機目、三機目。
 タクトは円の内側に短跳躍で入り込み、像の背中に半拍の刃を当てる。白が弾け、胃がねじれる。
 像は振り向き、顔のない顔でタクトを見た。
 冷たい。迷いの温度が、一切ない。

「こいつ、誰の——」
「“誰でもない”」ユイが押し返す。「無音が“人の形”を借りた。意思はない。だからこそ硬い」

 ミナの合いの手が一段深くなる。
 カラン。
 円の内側に新しい空気が生まれ、埃が二粒、落ちた。

 像の胸に、白いひび。
 タクトはそこへ、半拍を二連で打ち込む。
 白——白。
 吐き気が上がる。喉が焼ける。左眉の古傷が、熱い針で刺されるみたいに痛む。
 ——迷うな。
 彼は傷に指を当て、痛みを“合図”に変える。角度を正す。

「アマネ、もう一枚!」
「うん!」

 少年の指が、円の縁を滑る。返し先の印がミナとユイの音に結び、カイの“床”が受ける。
 像が、胸から崩れた。
 黒い粉が、音に溶ける。
 カ——ラン。

 円は、三分の一まで“破れた”。
 その時だ。ユイの端末が短く警報を鳴らす。「第三者アクセス……! ユニットのプロトコルに上書き要求!」

『弾く』カイが即答——したが、間に合わない。円周上の一つが、こちらの波形を“学習”し、逆手に取り始める。

「学習型……!」ユイが舌打ちする。「私たちの“返し”を餌にして、強くなってる」

「なら、別の刃で切る」タクトが息を吐いた。「ユイ、怒りは使うな。——“祈り”をもう一度」

 ユイは一瞬だけ目を伏せ、頷いた。
 彼女は共鳴子を静かに握り、胸の奥の柔らかい場所へ降りていく。兄に手を伸ばせなかったあの日。祈りが形にならなかった瞬間の、一音。
 それを、今、形にする。
 カラン。
 澄んで、薄く、しかし決して折れない線。

 円が、揺れた。
 学習型のユニットが、未知の“柔らかさ”を測りあぐね、計算を一瞬だけ止める。
 そこへ、タクトの半拍。アマネの“先返し”。ミナの受け皿。カイの床。片桐の制圧。
 重ねた合奏が、一気に円の半分を奪った。

 最後の半分——ユニットが過負荷で火花を散らし、偽署名がノイズに崩れる。
 ユイが端末を叩く。「今!」

 タクトは半拍を三連。視界が白にちかづく。胃が悲鳴を上げる。
 古傷の痛みは、もはや半分では追いきれない。だが代わりに、輪の呼吸が彼の脈に重なる。
 ——“今”。
 刃は、今のためにある。

 白。
 戻る。
 カラン。

 円は、裂けた。
 無音が、音に変わり、梁は呼吸を取り戻す。吊りワイヤーの張力が戻り、上からミナの安堵の息。「ありがとう。……市場、落ちない」

 片桐が銃口を下げ、周囲をクリア。アマネは膝から崩れそうになり、タクトが肩を貸す。
 ユイはユニットのログを抜き取り、急ぎ解析する。画面に流れる文字列の最後に、短い署名が現れた。

〈Bellwright_β〉

「ベルライト……“鐘の職人”。」ユイが低く読む。「プロジェクト名か、犯人の遊びか」

『企業内に、その名称の枝がある』カイが即答する。『出資は規制局経由。——片桐、覚えは?』

 片桐は硬い笑みを浮かべた。「今夜、局に“穴”が空くわ。誰かが落ちる」

 アマネがユイの袖を引く。「あのね」

「なに」

「円の内側で、ちょっとだけ“未来の音”を拾った。……ここ、また狙われる。今度は、上から」

 市場の天井。吊りワイヤーのさらに上。
 ユイは顔を上げ、ミナへ声を飛ばす。「上、注意して。天井側に“先回し”の癖が残ってる」

『了解。鳴らして待つよ』
 カラン。
 市場の鈴が短く鳴り、その余韻に、遠い足音が重なった。
 誰かが、こちらへ向かっている。軽い足音。迷いのないテンポ。

 タクトはヘルメットを脇に抱え、短く笑った。「やっと、“誰か”の顔が見られるかもな」

「見えたら、縫う。抵抗したら、切る」片桐が言う。

「切ったあと、返す」ユイが続ける。

「返し先は、ここだよ」アマネが胸に手を当てる。「ぼくも、合奏に入るから」

 輪は、息を整えた。
 カラン。
 まだ終わっていない。だが、刃と音と返し先は、揃っている。


第5章 天井から降る職人

 《縫い目の市場》は、いま静かだった。
 吊られた無数のコインは薄く揺れ、合いの手は小さく喉を湿らせる程度。——カラン。
 タクトたちはワイヤーの上段通路へ回り込み、天井の補強梁と吊りボルトの森を見上げる。そこに、“来る”気配がもうある。

「上から来る。足音、三つ、等間隔」ユイが囁く。共鳴子はすでに袖口で起動。
「私、左の梁で待つ。東雲は中央、アマネは私の視界内。飛び出したら合図まで触るな」片桐がワイヤーにフックを掛け、体を持ち上げる。

 天井のサービスハッチが無音で開いた。
 降りてきた影は三つ——吊りハーネスに黒いスーツ、無印のマスク。だが、中央の一人だけマスクを上げ、白い顔を見せた。痩せた頬、細い瞳、無表情の笑み。

「ご機嫌よう、市場の方々。ベルライト計画・現場主任、白洲アキラです」
 男は礼儀正しく頭を下げ、平然と円形のデバイスを吊りボルトに“置いた”。音はしないはずなのに、タクトの胃が先に縮む。

「偽署名の持ち主か」片桐が短く言う。

「偽ではありませんよ。理念の継承です。KAIは“縫う”。我々は“鳴りを管理する”。人の迷いは、音の管理で軽減できる」
 白洲はユイに目を向けた。「あなたの逆位相技術、とても美しい。協力してもらえませんか。鐘が鳴り過ぎると人は不幸になる」

「鳴らなかった輪で何が起きたか、知ってる?」ユイの声は静かだった。

 白洲の瞳が、アマネを一瞥で測る。「——飢え、ですね。だから“前もって食べる”。我々のプロトコルは影に芯を与えない。正しく配給すれば」

「配給のために市場を落とすのか?」タクトが一歩進む。

「落としません。ただ少し、黙らせるだけ。無音の区画が循環する社会は美しい」

「美しくない」アマネがきっぱり言った。「食べたまま返さないなら、それは泥棒」

 白洲の口角が、わずかに上がる。「返しますとも。“適正な場所”に。あなたが先に引くなら、我々は先に配る」
 彼は天井に円をもう一つ、置くふりをして——親指を弾いた。

 ワイヤーの森に“波”が走った。
 吊りコインが一斉に外側へ揺れ、音は逆相で相殺されていく。市場が、黙らされる。

「来る!」片桐の号令と同時に、ユイの共鳴子が低く打たれた。
 基音。
 タクトは半拍の印を梁から梁へ。白い空隙がまばたきし、吐き気が喉を焼く。
 アマネは胸の前で“返し先”を三つ、素早く置いた。「ミナ、ユイ、カイ!」

『受けるよ』ミナの合いの手が細く長く降り、コインの縁に薄い光が生まれた——だが、白洲の円盤から吐き出された学習波形が、その光を“測り”、食べようとする。

「学習型だ。昨日の戦いから持ち帰ってアップデートしてる」ユイが歯を食いしばる。「祈りで揺らす!」

 カラン——。
 ユイの一音が、市場の骨にしみ込む。
 白洲が目を細めた。「祈りは非合理だ。だが——美しい」

 黒スーツの二人が同時に降下、ワイヤーにナイフをかけて切りに来る。
 片桐が二連で撃つ。ひとりのハーネスが切れ、宙で回転して梁にぶつかる。もう一人が片桐に接近、短い格闘。
 タクトは半拍で白洲の背へ回り込む——白。戻る——視界に白洲の横顔。近い。
 拳を入れようとした刹那、白洲の身体が“遅れた”。一拍だけ、タクトの動きとずらすタイミング。
 タクトの拳は空を切り、ワイヤーを揺らしただけ。

「学んでるのはプロトコルだけじゃないのね」ユイが低く吐く。「人の癖もコピーする」

「そう。私は“鐘室プロトコル”と、あなた方の“手癖”を学んだ」白洲が手首を振る。円盤が照明の陰に潜り、天井にもう一つの完璧な円が浮かぶ。「これで二重の無音。——さて、静かにしましょう」

 市場の音が、一段落ちた。
 コインが鳴らない。ミナの合いの手が、細くなっていく。

『……まだ、いるよ』ミナの声がか細く続く。『大丈夫。返し先は、ここ』

 タクトは古傷に指を当て、角度を作った。
「アマネ、合図で“先返し”。ユイ、祈り。片桐さん、あの円盤を止めてくれ。カイ——床、もう一段、貸してくれ」

『貸す。ただし、東雲、半拍は二連までだ。三連は——』

「やる」

 白洲が笑い、指を鳴らす。「静粛に」

 無音が沈む。
 ユイの祈りが上がる。
 アマネの返し先が点灯する。
 片桐がワイヤーを走り、円盤に飛び蹴りを叩き込む。外装が剥がれ、内部ユニットがむき出し。近距離で二発。火花。
 タクトは白——白。二連。胃が裏返り、視界の縁が黒くなる。
 白洲の横顔に拳が届く寸前、男の首が“遅れた”。一拍、ずらす。
 タクトは狙いを変え、円盤のアンカーへ肘を入れた。金具が折れる。円が一つ、ほどける。

 カラン。
 市場のどこかで、一枚だけコインが鳴った。
 白洲の目が、初めてわずかに驚く。

「合図!」タクトが叫ぶ。

「今!」ユイ。
「今!」アマネ。
『今!』ミナ。

 返し先の印が一斉に灯り、無音の縁が“返る”。
 円の半分が崩れた。吊りコインが薄く歌いはじめる。

「非合理だ」白洲が呟く。「だが、羨ましい」

 彼は躊躇なく、最後の円盤を自分のハーネスに結び付けた。自分ごと“無音の中心”へ落ち込むつもりだ。
 片桐が狙う——しかし角度が悪い。撃てば、市場の梁を貫く。

「タクト!」ユイの声が刺さる。「三連はダメ!」

「知ってる」

 タクトは半拍を——二連で終わらせた。
 代わりに、左眉の古傷に残した“半分の痛み”を、指先から解き放つ。
 それは合図。角度。刃の中心。

「ミナ、受けて!」

『受ける!』

 痛みの“合図”が合いの手に混ざり、コインが均一に震えた。
 白洲の足元で、無音の床が一瞬だけ“鳴る”。
 彼の身体の遅れが、その鳴りに追いつけなかった。
 白洲は、落ちなかった。代わりに、円盤だけが“沈んだ”。
 無音の核に円盤が吸い込まれ、波形が自壊。円は、破れた。

 カラン。
 市場の全てのコインが、一斉に一音だけ鳴った。

 白洲はワイヤーにぶら下がり、薄く笑った。「見事です。——でも、止まらない」

「何が」片桐が銃を向ける。

「鐘室に、ベルライトの“本署名”が向かっています。さっき学んだ“返し先”の経路で。あなた方が開いた道で」

 ユイの顔色が変わる。「鐘室へ——!」

「止めるには」白洲は肩をすくめた。「あなたたちがもう一度、“合唱”をやるしかない。私にはもう、することがない」

 片桐がワイヤーを引き寄せ、白洲の両手を拘束する。男は抵抗しない。
 アマネが小さく震え、タクトの袖を掴む。「ごめん。ぼく、返し先を……」

「間違ってない。学ばれただけだ」タクトは短く言い、ユイと目を合わせた。
 彼女は頷き、共鳴子を握り直す。「鐘室へ走る。ミナ、道案内を」

『もちろん。待ってるよ。——カラン』

 市場の鈴が、はっきりと響いた。
 タクトはヘルメットを脇に抱え、駆け出す。片桐が白洲を引きずり、アマネが小走りで追う。
 《アストレイア》の輪は、一瞬だけ呼吸を止め、次の音を待った。

 鳴らすか、黙らせるか。
 合唱は、もう一度。合図は、今。


第6章 合唱ふたたび

 鐘室の扉は、開いたまま待っていた。
 蜂の巣状の共鳴板が琥珀に沈み、中央プラットフォームの先端に、薄い霧のような光が立ちのぼる。そこへ、白い文字列が滲み出た。

〈Bellwright_β:返し先経路を取得/鐘室プロトコルに接続要求〉

「私が弾く」ユイが端末を叩く。指が速い。
「私は内側から抑える」片桐が外周デッキを走り、四方の結束ピンにクリップを噛ませる。
 白洲は拘束されたまま壁に背を預け、静かに様子を見ている。アマネはプラットフォームの根元、線から半歩離れてしゃがみ、膝に手を置いた。

『鐘室の床、貸し増し』カイの声が落ちる。『ミナ、合いの手の“器”を広げろ』

『うん。今回は深鉢にする』
 市場の方角から、優しい鈴の音。
 カラン。

 次の瞬間、白い霧が凝り、輪郭を帯びた。
 人ではない。鐘の“鋳型”のような、空洞のかたち。中で無数の等号と不等号が走り、音を式にしようとする。

「これが“本署名”……鳴りを管理する鐘」ユイが息を飲む。

「管理は支配だ」タクトは短く言い、左眉の古傷に指を当てる。脈が輪の呼吸と重なる。
「合唱で行く。前と同じ——ただし、祈りを頭に、怒りは封印。アマネ、“先返し”の座標を先に置け」

「置く」少年は空中に見えない点を三つ、そっと灯した。「ミナ、ユイ、カイ」

『受ける』
『受ける』
『受ける』

 ユイが共鳴子を胸に当て、目を閉じる。「——始める」

 第一撃。祈りの基音。
 胸の奥から、薄く、折れない線が鐘室一面に引かれる。
 第二撃。ミナの合いの手。
 市場千枚の小さな鐘が、重ならぬように重なり、受け皿を満たす。
 第三撃。タクトの半拍。
 白い空隙が心臓の拍に同調し、刃ではなく“脈”として刻まれる。

 ——カラン。
 床が応え、鋳型の内側で空気が震える。

〈Bellwright_β:位相差検出/学習ルーチン更新〉
 鋳型の内側に黒い網目が生まれ、祈りの線に重ねて“理解”しようとする。

「理解させない」ユイが低く言う。基音をほんのわずか横に滑らせ、数列の隙間に“余白”を置く。式にできない、体温のずれ。
 アマネが返し先の印を細かく増やし、点を線にせず、点のまま灯し続ける。
 片桐の声が周縁から飛ぶ。「外乱なし。鐘室、クリア」

 白洲が唇の端を上げた。「美しい。だが、学習は止まらない」

〈Bellwright_β:補助署名併用/“静粛化”位相注入〉
 鋳型の底から、冷たい無音が立ち昇る。合唱の下に“静けさの板”を滑り込ませ、音をすくい取ろうとする。

『ユイ、下を跳べ』カイが指示する。『基音の真下へ、もう一つの床を』

「了解」
 ユイは共鳴子を打つ手を崩さず、もう一つの低い線を足下の奥に置く。
 タクトは半拍の印で支える。胃が裏返る。視界が白ににじむ。
 古傷の痛みが、角度を示す。——迷わない。

 鋳型の縁が、はじめて“揺れた”。
 祈りと返し先と半拍が、支配の式に薄い皹を入れる。

「アマネ、今」タクトが合図する。

「返す!」
 少年は指の腹で“返し先”の印を連続で叩く。一つずつ、点。線にしない。
 返った音が、鋳型の内側の“数式”を濡らし、乾かないうちにまた返る。

〈Bellwright_β:収束遅延……補助ルーチン強化〉
 鋳型が身を固くし、鐘室の壁に“爪”を立てる。
 ユイの額に汗が滲む。「来る……!」

 そのとき——別方向から一音。
 カラン。
 市場とも鐘室とも違う、遠い、地上のどこかの教会の、古い鐘の音。
 白洲が顔を上げる。ユイも、タクトも、アマネも、一瞬だけ視線を交わす。

『借りたよ』カイの声が微かに笑う。『“世界の端の鐘”を一撞き。式が知らない鐘だ』

 鋳型の“学習”が一瞬だけ空転し、不整合が増える。
 そこへ、三人の音。
 祈り、合いの手、半拍。
 ——重ねて、打つ。

 カラン。
 鋳型の内側で、初めて本当に“鳴った”。
 式が音に負け、音が式を越える。
 鋳型に、蜘蛛の巣状の亀裂。

「片桐!」タクトが叫ぶ。
「応!」
 片桐がロープで飛び、亀裂の結び目に消音弾を一発、正確に打ち込む。
 鋳型がひしゃげ、白い霧が飛沫になって弾けた。

〈Bellwright_β:破断〉
 表示が滲み、消える。
 鐘室の空気が一息、低く沈み——静かに戻る呼吸。

 ユイは共鳴子を抱え、胸で息を整えた。
 アマネは膝に顔を伏せ、長く息を吐く。
 タクトは左眉の古傷に触れ、痛みの残り半分が輪のリズムにほどけていくのを感じた。

 白洲は壁に凭れたまま、目だけで拍手をした。「敗北を認めます。美しかった。——ですが、あなた方は鐘を“自由に”鳴らした。混乱を恐れない。私は……それが怖い」

「怖いなら、耳を塞がないで練習すればいい」ユイが静かに言う。「祈りも怒りも、式にできない。だから、人にしか扱えない」

 片桐が白洲の拘束を強める。「取調べの続きを、局で。プロジェクトの名簿を全部吐いてもらう」

『処理の間に、輪の残った無音を拾っておく』カイが言う。『少年、印をいくつか貸してくれ』

「うん。返し先、ミナにする」

『任せて』
 市場の合いの手が、柔らかく落ちる。
 カラン。

 鐘室に、しばし本当の静けさが訪れた。
 それは“管理された無音”ではなく、鳴り切った後の、呼吸の隙間。

     *

 引揚げの途中、通路の窓から地球が見えた。
 雲の縁が陽に煌めき、輪の細い影が青へ線を引く。
 アマネがその景色を飽きずに見て、小声で言った。

「ねえ。ぼく、まだ“先に”触っちゃうかも」

「触るさ。人は触る」タクトが笑う。「でも、合図で触ればいい。返し先を決めてから」

「うん。……たぶんできる」

 ユイがアマネの肩にそっと手を置く。「できる。できない日は、私が怒って、祈る」

 片桐が前を歩きながら、帽子の庇を指で押した。「今日はログが山ほどある。けど——よくやった」

『ねえ』ミナがそっと囁く。『今日の“合唱”、記録したよ。市場で、たまに流してもいい?』

「流して」ユイが笑う。「人が迷った時、耳に届くように」

 輪が、一周を鳴らした。
 カラン。
 その音には、祈りと、返し先の印と、遠い世界の鐘と、ひとつの敗北を認めた男の静けさが、すこしだけ混ざっていた。

——第二部・了(つづく)


第二部『沈黙に割れる輪』 登場人物紹介(ネタバレ最小限)

主要キャラクター

東雲タクト(しののめ・タクト)/30

  • 役割:時間跳躍テストパイロット(“半拍”を刃のように刻む)

  • 固定要素:左眉の古傷/吐き気を伴う因果律酔い/グレーのフライトスーツ+オレンジ差し

  • 第二部の立ち位置:合奏(祈り・合いの手・半拍・先返し)の“打ち手”。迷いを角度に変えて無音を切り分ける。

  • 見せ場:沈黙樹の剪定、無音円の破断、鐘室での再合唱を主導。

望月ユイ(もちづき・ユイ)/29

  • 役割:事故解析官/因果律研究者(共鳴子で位相を整える)

  • 固定要素:ボブ+黒縁眼鏡/左目下の小さなホクロ/白コート

  • 第二部の立ち位置:合奏の“基音”。怒りは封印し、祈りの一音で学習型プロトコルを揺らす。

  • 見せ場:無音域の地図化、返し先ネットワークの設計、鐘室での“祈り優先”。

ミナ(拾い屋/ピッカー)/年齢不詳

  • 役割:市場の守り手/輪に“混ざった”声

  • 固定要素:半透明の輪郭・音叉・穴あきコイン

  • 第二部の立ち位置:合奏の“合いの手”と受け皿。市場の規範を「先返しが先」に更新。

  • 見せ場:市場の無音円防衛、鐘室で合唱の器を広げる。

片桐ミサト(かたぎり・ミサト)/35

  • 役割:連邦時制裁庁・監察官(外乱制圧と交渉)

  • 固定要素:ネイビージャケット/消音弾の短銃/冷静な現場判断

  • 第二部の立ち位置:現場指揮と法的処理の“盾”。内部不正の糸口を握り、敵装置の物理無力化を担う。

アマネ(天音)/年少・身元不詳

  • 役割:“先回し(プリフェッチ)”の資質を持つ少年

  • 固定要素:音叉ペンダント痕/小柄・物静か/〈A.M.〉刻印のコイン

  • 能力:未来側の“薄紙”を一枚だけ先に引き、また“返す”——第二部で「先返し」を学ぶ。

  • 第二部の立ち位置:無音域への鍵。返し先の印を置く“補助観測員”として合奏に参加。

対立・キーパーソン

白洲アキラ(しらす・アキラ)

  • 役割:〈ベルライト計画〉現場主任/学習型“無音”運用者

  • 特徴:礼儀正しい合理主義者/無表情の笑み/学習する円盤ユニット

  • 目的:輪の“鳴り”の管理・配給(静粛化)。KAIの署名を模倣し、無音円で市場を黙らせる。

  • 関係:片桐による拘束後、計画の上層〈鐘守(ベルワーデン)〉へ繋がる証言の鍵に。

KAI(回収屋)

  • 役割:“余白”の回収・縫合/作戦支援AI(実体不詳)

  • 第二部の振る舞い:床(受け側)提供・学習系無音への対抗策提示。合唱の“譜面”を社会へ開く提案者。

エコー/沈黙片(サイレンス・フラグ)

  • 定義:迷いに寄生する影/“先回し”のカケラで核を得て固まる残渣

  • 形態:影→片→樹状化(沈黙樹)→像(スタチュー)

  • 対処:祈りの基音+半拍の切断+合いの手+“先返し”で分解・返送。

組織・計画・舞台

〈ベルライト計画〉

  • 概要:鐘室プロトコルの劣化コピー+学習制御で輪の“鳴り”を管理する企図。

  • 署名:Bellwright_β(本署名)、偽KAI署名/上位組織〈鐘守(ベルワーデン)〉。

縫い目の市場(マーケット)

  • 概要:落ちた“時間の欠片”を並べる場所。ミナが守る。

  • 第二部の事件:完璧な無音円で吊り構造を狙われるが、合奏で防衛。

鐘室(しょうしつ)

  • 概要:輪の“呼吸”の中枢。合唱の舞台。

  • 第二部の焦点:学習型“鋳型”〈Bellwright_β〉との最終対決。


用語集(第二部)

無音域(サイレント・パッチ)
輪の一部から「鳴り」が抜ける現象。最近の記憶が“つっかえ”やすく、音が戻らない。自然発生ではなく、先回しや偽プロトコルで作られる。

沈黙片(サイレンス・フラグ)
無音域の残渣。影(エコー)に核が生まれ、床に“残る”黒い粘性。放置で増殖・硬化。
対処:ユイの基音+タクトの半拍で切り分け、ミナへ“返す”。片桐が小片を物理無力化。

沈黙樹/像(スタチュー)
沈黙片の成長形。樹状に広がる/人型に硬化して“無音の意志”のように振る舞う。
対処:返し先を先に構築→基音で固定→半拍で割る→合いの手で受ける。

先回し(プリフェッチ)
未来側の“時間の薄紙”を一枚だけ先に引き、余白を確保してしまう行為。
メリット:影の飢えを一時しのぎ。
危険:返し先が無いと沈黙片に核を与える。第二部の無音域拡大要因。

先返し(プレリターン)
“先に引く”のではなく、“返す先を先に決める”運用。
手順:返し先(ミナ/ユイの基音/KAIの床)にを置く→操作→直ちに返送。
効果:沈黙の固定化を防ぎ、合奏と相性が良い。アマネが実践。

合唱(アンサンブル)
本シリーズの中核戦術。
構成:

  • 祈りの基音(ユイ):式にできない“人の線”で学習系を揺らす。

  • 合いの手(ミナ):器=受け皿。返送の受理・増幅。

  • 半拍(タクト):短跳躍の“白い空隙”を刃ではなくとして刻む。

  • 先返し(アマネ):返送の印を点で置き、線にしない。

  • 外乱制圧(片桐):物理的・法的ガード。
    補助:KAIの「床」=受け側の基盤供給。

鐘室プロトコル
輪の呼吸(鳴り)を制御する式。

  • 正:呼吸を整える。

  • 偽:〈Bellwright〉が改変・学習させた制御式。無音を“管理”しようとする。

Bellwright(ベルライト)/鐘守(ベルワーデン)
“鳴りの管理”を掲げる計画/上位組織。学習型無音を用いて社会を「静粛化」。第二部で現場主任・白洲が拘束され、上層への手がかりに。

返し先(リターン・ベッド)
返送の着地点。ミナの市場・ユイの基音・KAIの床などの具体的な受け皿
原則:「先返しが先」=触る前に返し先を決める。

祈りの基音
ユイが放つ、怒りではなく“祈り”に由来する低い一音。学習系が“理解できない柔らかさ”で位相をずらす。

半拍(ハーフビート)
タクトの短距離跳躍の半呼吸を「印」に変換したもの。連打は負荷大。角度は左眉の“古傷”の痛みでチューニング。


エピローグ

1)取調室のガラス越しに(白洲アキラ)

 無音の壁紙を選んだみたいな部屋で、白洲は椅子に背すじをつけた。片桐ミサトは記録ランプを点け、紙の手帖も開く。

「ベルライト計画の最上位署名は?」
「“鐘守(ベルワーデン)”。実体は委員会。資金は規制局の特別会計を経由、技術は複数社の寄せ集め。誰も全体像を持たない——持たないよう調整されている」

「KAIの偽署名は誰が作った」
「私です。あなた方に“学ばせる”ために。あなた方は合唱で来ると確信していた。……予測は外れた。合唱は破られなかった」

 片桐はペン先を止め、わずかに目を細める。
「あなたの目的は“静粛化”か、“制御の証明”か」

「どちらでも。私は無音が美しいと思う。だが、今日の“鳴らし方”は嫉妬した」
 白洲は無表情のまま、ほんの少しだけ肩を落とした。
「提案がある。鐘守を“表”へ引きずり出すため、私を使えばいい。証言する。代わりに、市場は守れ」

「もう守ってる」片桐は立ち上がる。「そして、あなたはしばらく黙る。次に喋る場所は公聴会だ」

 ドアが閉じる直前、白洲は低く問うた。
「東雲タクトの“半拍”は、どこで学べる?」

「練習場は、現場よ」片桐は振り返らない。「教本は、耳」

 遠くで、輪が一周、鳴った。
 カラン。


2)身元不詳、保護申請(アマネ)

 簡易医療ベイ。アマネはベッドに座り、絆創膏の宇宙船を指でなぞっていた。ユイが端末を掲げ、タクトが壁にもたれている。

「身元照会、ヒットなし。出生データも渡航記録も、空。——でも、耳の診断で“微細骨導”に生得的な共鳴癖が出た。鐘室の波形に似てる」

「つまり?」タクト。

「“閉じそこねた輪(ループ)”の落とし子、の可能性。記録に載らないところから“落ちてきた”」
 ユイは微笑む。「ここで育てればいい。“合図で触る”を学べる」

 アマネは不安そうに唇を噛む。「ぼく、また先に触っちゃうかも」

「触る前に、返し先を言えばいい」タクトは短く言った。「ミナ、ユイ、カイ、そして——俺」

「……うん」
 少年は顔を上げる。「じゃあ、ぼくの“返し先”の一つ、東雲にしていい?」

「高利は取らない」タクトは笑った。

 天井スピーカーが小さく鳴る。ミナの合いの手だ。
 カラン。
『新しい“市場ルール”、貼っておくね。“先返しが先”。それと、“祈り優先”』


3)静かな取引(KAI)

 夜の整備区画。人の気配が薄い時間。
 タクトの耳に、ヘッドセットなしで声が落ちた。

『東雲タクト』

「KAI。今日のツケは?」

『“一音の沈黙”を寄こせ、と言いたいが、やめる。その代わり——“合唱の譜面”を匿名で公開しろ。誰もが“返し先”を持てるように。式ではなく、手順として』

「危険だ。悪用もされる」

『いずれ誰かが盗む。なら、こちらから“下手な譜面”で先に配る。合唱は練習を要する。練習には共同体が要る。市場が育つ』

 タクトは少し間を置き、頷いた。
「ユイと片桐に通す。俺は賛成だ」

『もう一つ。あなたの古傷——半分、残した。賢明だった。残り半分もいつか手放せる。だが、急ぐな。刃は、今のために置け』

「わかってる」

『では、また“今”で会おう』

 通話が切れる。
 外回りの窓に地球が浮かび、輪の影は薄い。
 タクトは左眉にそっと触れ、吐息で笑った。
 遠く、控えめに輪が鳴る。
 カラン。


第三部プロローグ

『地上の鐘、空の返し先』

 ——朝、地上。
 凍てた空気の向こうに、古い教会の尖塔が立っている。鐘楼に人はおらず、代わりに屋根裏に置かれた小さな装置が、微かに震えた。

 カラン。

 海沿いの都市一帯で、その一音に続く“風切り”が観測された。風は吹いていないのに、音だけが走る。
 同時刻、《アストレイア》の鐘室に「地上からの逆位相パルス」入電。発信元は未登録の複合網“Terra Campanile(地上鐘)”。

「地上から“返し先”を名乗ってきた」ユイが報告する。「合唱の譜面、誰かが掴んだ」

「早いな」タクトはヘルメットを脇に抱え、窓の地球を見た。「誰の仕業だ」

 片桐が渋い顔でタブレットを掲げる。「白洲の供述にあった“鐘守”が逆手に——いや、違う。署名が二つある。“民間の鐘”と“官製の鐘”。地上で、鳴りの主導権争いが始まった」

『市場にも地上の音が届いたよ』ミナの合いの手が少し弾む。『嬉しいけど、荒い。受け皿、いくつか割れた』

「合唱の“レベル”がバラバラだ」ユイは眼鏡を押し上げる。「放っておけない」

「行くのか、地上へ」タクト。

「行く。エレベータで。譜面を“手渡し”に」
 ユイは共鳴子を握り直し、笑った。「祈り優先でね」

 輪が、一周を鳴らした。
 カラン。
 地上の鐘と、空の返し先。そのあいだで、また“今”が試される。合唱は広がり、刃は鈍らず、祈りは式にできないまま強くなる。

——第三部へ続く。

タイトルとURLをコピーしました