第1章 火の匂いの商店街
秋の夜は、からっ風の代わりに溶剤の匂いで頬を刺す。駅前アーケードでは、再開発の仮囲いが半分外され、鉄骨がむき出しになった天井から白い養生シートが垂れている。百目鬼恵は、学校から借りた一眼を首から下げ、シャッター通りの先で三脚の脚をそっと広げた。
「最後の姿、撮っとかないとね」
通りの半ば、取り壊し前の古い布地店の前にダンボールが山になっている。店名の剥げた看板、消えかけた手書きの値札。レンズを覗いたとき、恵の鼻腔を、柑橘めいた甘さと、金属を叩いた後のような鋭い臭いが刺した。
「……シンナー、じゃない。トルエン?」
自分でも驚くほど小さい声が漏れる。理科準備室に出入りしているおかげで、匂いには敏感になった――いや、父の職業のせいかもしれない。鑑識の家は、匂いで季節が変わる。
「風下に段ボールを積むのは、火の餌を並べているのと同じだ」
背後から落ち着いた声が降ってきた。振り向けば、夏休み明けに赴任してきた臨時の理科教師、紅村真が立っていた。白シャツの袖を肘まで折り、首元に防塵マスクをぶらさげている。目元だけが笑っていない。
「先生、こんな時間に」
「匂いで起きたから、散歩。君は?」
「新聞部です。記録」
「なら、いいものが撮れる。たぶん、すぐに」
言葉が終わるより早く、乾いた音がひとつ。仮囲いの向こう、布地店のシャッターの隙間から、オレンジ色の舌がぴょんと覗いた。瞬間、段ボールの山がふわりと光を孕み、炎は布の束を撫でるように走った。
「下がって。消火器は――」
「そこ!」
恵が指差した先、柱の影に赤い消火器。紅村は走り出し、ピンを抜くのと同時に、アーケードの天井を一度見上げた。彼は風の向きを読むように身体の角度を変え、粉の白い弧で炎の根元を断つ。
「レバーを握るより先に、風を見る」
「新聞部じゃなくて、消防士みたい」
火勢が一旦しぼむ。恵はシャッターの上の黒いドームカメラに目をやった。レンズは商店街の中心から微妙にそれ、なぜかアーケードの梁ばかりを映す角度に固定されている。さらに脚立の跡のような埃の抜け、ドームの縁には半透明の膜が塗られた跡――ワセリン?
「先生、カメラが……」
「見えないように、見せてる。誰かが触った」
紅村が消火の手を止めると同時に、離れた路地から小さく、紙が燃える音がした。恵は反射で走り、たいやき屋の裏手へ滑り込む。そこには、古い狸の置物、その足元からギザギザに切られたペットボトル、半分折れたアルミ缶。缶の中には黒く焦げた芯――ロウの残骸。
「……タイマー」
缶から伸びる細い透明の線が、狸の手から街路樹の根元へ、さらに段ボールの角へと続いている。恵は片膝をつき、フードの袖でレンズを拭うと、線の結び目、煤の粒、足跡を次々に切り取っていく。
「釣り糸。光を反射しにくいナイロン。火種はロウソク。火はゆっくり、でも確実に移る」
いつの間にか背後に来ていた紅村が、缶を覗き込みながら呟く。彼の白シャツには消火剤の粉が散り、甘い溶剤の匂いと混ざって、胸のところで夜の匂いが層になっていた。
遠くで、サイレン。音が重なるたび、恵の心臓はシャッターと同じリズムで打つ。
「誰が仕掛けた?」
自分に訊ねるように口にした途端、足元の落ち葉がふわりと跳ねた。恵は無意識にシャッターを切る。画面の端、段ボールの影から、軍手の指先――緑の塗料が乾ききっていない――が引っ込み、軽い足音が鉄骨の方へ走る。
「先生!」
「追うな。風と火は、すぐ戻る」
紅村は恵を引き戻し、再び布地店の前へ。鎮火したはずの布の芯から、もう一度、細い炎が立ち上がった。彼は手際よく残りの粉を掃きかけると、地面の濡れた黒に膝をつき、指でなぞる。
「ここに、線が走ってた。ロウから段ボールへ。匂いは……キシレン系。看板屋が使う剥離剤だ。甘くて、残る」
「看板屋?」
「再開発は、看板がよく剥がれる」
恵は言葉の意味を飲み込みかけて、ふと、シャッターの磁石に挟まれている紙片に目を留めた。縁が焼け、黒い斑点が星座のように散っている。ピントを合わせると、そこには、商店街組合の回覧に似たフォーマットで、赤いマーカーが三ヶ所、円を描いていた。
《立ち退き協議未了》――書肆ほしぞら/珈琲・東風/時計店タケナカ
そして、右下の小さな文字。
《監視強化範囲図》の隣に、ボールペンで書き足された矢印。→回避
恵は無言で、連写の音を増やした。数の暴力で、火と嘘を止める。
サイレンが止まり、青い光がゆっくりと壁を撫でる。制服警官が駆け寄り、紅村は短く事情を告げる。恵は一歩引いて、画面の隅に映り込む影を確認する。脚立の泥、靴底の欠け、踵の外側に欠けた三角。
――同じ靴、見たことがある。どこで?
「……恵」
背中に馴染みすぎた声が落ちた。振り返ると、白手袋の男が立っている。百目鬼左近。鑑識のジャケット、疲れた目。父だ。
「こんな所で何してる」
「取材」
「家では、おまえの写真が証拠にならない話しかしてないはずだが」
「証拠は、撮る前から証拠だよ」
空気が一瞬だけ、焦げた紙のようにくしゃりと歪む。紅村がその間に割って入る。
「撮らせておいた方がいい。記録は、火より速い」
父は恵を一瞥し、作業に戻る。恵は視界の端で、父のハンディライトがシャッターの紙片を照らすのを捉え、もう一枚だけシャッターを切った。
遠くで、深夜の電車が線路を渡る鈍い音。アーケードの天井から垂れた養生シートが、微かな風で揺れ、ひととき炎の名残の色を返す。
恵はカメラのモニターを閉じた。
「先生」
「うん」
「この火は、誰の嘘だと思いますか」
紅村はしばらく匂いを嗅ぐように沈黙し、アーケードの見上げた先――歪められた監視カメラを指で示して言った。
「嘘は、いつも死角にいる」
第2章 死角の設計図
朝の校舎は、昨夜の焦げた匂いを知らないふりをして光っていた。新聞部の部室で、恵はカメラからカードを抜き、机の上に昨夜の紙片を広げる。縁が焼けた回覧のような一枚。
紅村が白衣の袖をまくり、理科準備室から持ってきたビニール手袋を恵に渡す。
「指紋は後で、警察に任せる。僕らは匂いを見る」
「匂いを……見る?」
紅村は、使い古しの油性ペンを一本取り出した。キャップを開けると、甘くて刺す匂いがふっと立つ。
「マーカーの溶剤は、製品によって違う。キシレン系、酢酸エチル系……昨夜の紙からはキシレンが強かった。ほら、ここ」
赤丸の外側、ほんの僅かに紙が沈んで光る部分を、紅村の指先が示す。
「同じ赤でも、これはZebraの工業用。文具店より看板屋のほうがよく使うタイプだ」
「看板屋……」
恵は、自分の鼻の奥で昨夜の甘さが再現されるのを感じた。
午前の授業が終わるとすぐ、二人は商店街に向かった。アーケードの天井は、昼の光でも相変わらず灰色で、昨夜の粉が白い足跡になって残っている。
赤丸で示されていた一つ目――古本屋「書肆ほしぞら」。薄い木の引き戸を押すと、鈴が乾いた音で鳴った。
「いらっしゃい」
カウンターから顔を上げたのは、短髪にバンダナを巻いた女性。星野みどりと名札にある。六十代、目がよく通る。
恵は学生証を見せ、昨夜の火のことを話すと、星野は頷き、ため息をついた。
「この辺は最近ね、誰かが夜中に鍵穴にボンドを詰めたり、ポスター剥がしたり、細かい嫌がらせが多いの。『出てってくれりゃ、全部解決するのに』って、笑いながら言いに来た男もいた」
「男、ですか。どんな人でした」
「若い。二十代、やせてて、歩くと片足を少し引きずる。軍手がいつも緑に汚れてた」
恵と紅村は目を合わせる。緑の塗料。
「それから、外に変な印」
星野に案内され、店先のタイルを見ると、薄く消えかけた緑の三角が、入口に向かって矢印のように描かれている。
「配管のマーキングに似てるけど、色が違う」紅村がしゃがむ。「これはエナメル系のスプレー。消しにくいから、現場の人間は嫌う。敢えて使うってことは、ここを長く目印にしたいってこと」
説明が終わらないうちに、恵の鼻孔がまたさざ波を立てた。甘くて、よく知った匂い。
「先生、また――」
「どこだ」
匂いは隣から差してくる。赤丸二つ目――喫茶「東風(こち)」。
ガラス越しに、カウンターの向こうで誰もいない厨房が見える。ドアの脇、ゴミ箱の奥に、空き缶が伏せてあり、缶の中に白いものが見えた。
恵は走ってドアノブを回す。開いている。店内の空気は暖かく、甘い。
「ロウだ」
缶の中心に、黒く煤けた芯。その周囲から釣り糸のような透明の線が伸び、床を這い、紙袋の下へ潜っている。紙袋の中は布切れの束――古本屋から流れてきた包装紙かもしれない。
「まだ火は上がってない。けど、溶けたロウが糸を伝って――」
紅村は振り返り、カウンターの上の丸缶を掴んだ。クッキーの空き缶。
「酸素を遮る」
彼は空き缶をひっくり返し、空き缶ロウソクの上にそっと被せる。金属が床に触れる音が小さく鳴り、匂いがほんの少し鈍る。
恵は足で紙袋を押さえ、指先で釣り糸を辿る。その途中、棚の影に落ちていた軍手――指先に緑の塗料が乾ききっていない――が視界の端に引っかかる。
「置いていった……?」
「逃げ足が速い」紅村が低く言う。「入口、見張って」
恵がドアに目をやった瞬間、ガラスの向こうを黒い影が横切った。反射で恵は飛び出す。
「待って!」
影は細い路地へ滑り込み、鉄骨の足場をひょいと駆け上がる。恵も追う。上の階は取り壊し中のスケルトン。鉄板の隙間から昼の光が縞になって差す。
踵の外側が三角に欠けた靴跡が、粉の上にいくつも連なる。
角を曲がった先で、影が振り返り、銀色のものを投げた。カッターナイフ。恵は身をすくめ、刃は手すりに当たって鳴った。
「危ない!」
腕を引かれて恵は踏みとどまる。紅村が追いついていた。息は乱れていない。
「ここは崩れる。下」
二人は足場を一段降りる。上で、わずかな金属音が遠ざかる。影は屋根へ消えた。
恵は悔しさを噛みしめ、カッターナイフを布で包む。柄には薄い緑の塗料、その端に、油性インクで数字――〈K-17〉。
「会社の道具管理番号……?」
紅村はナイフを光に透かす。
「警備会社か、看板会社か。どちらにせよ、街の内側の人間だ」
階段を降りると、珈琲の香りと一緒に父の声があった。
「勝手に動くなと言っただろう」
百目鬼左近が、店の入口に立っていた。制服の胸ポケットには小さな手帳、ベルトにはライト。
「火は?」
「消した」紅村が答える。「ロウと釣り糸だ。まだ燃えてはいなかった」
父は床のクッキー缶を見下ろし、短く頷く。
「昨夜の現場で見た仕掛けと似ている。連続だ。……恵」
「なに」
「お前の写真を見せろ。映っていないものが、映っているかもしれない」
反射的に反発しかけた言葉が、父の疲れた目にぶつかって止まる。恵はカメラを渡した。父は素早くサムホイールを回し、昨夜の連写をめくる。
「この監視強化の紙、形式が変だ。市の書式じゃない。紙の地紋が民間のセキュリティ会社のものに似てる。裏に透かしがある」
紅村が横からのぞき、唇の端がわずかに動く。
「僕も、そう思っていた」
父は顔を上げる。
「――君は誰だ。現場の嗅ぎ分けが速すぎる」
紅村は目を細め、答えない。白衣の袖口についた消火剤の白が、やけに明るく見える。
そのとき、アーケードの反対側でシャッターがガン、と鳴った。古い時計店のほうだ。恵は条件反射で振り返る。
時計店「タケナカ」の前に、昨夜と同じ紙がマグネットで留められている。赤い丸は三つ目。
父が走り寄り、紙を外す。恵もその肩越しに覗き込む。右下、ボールペンの走り書き。
《回避》の矢印の下に、小さく――〈坂下 23:10〉
「坂下?」
「商店街の南端、坂を降りたところに小さな配電盤の小屋がある」紅村の声。
父は恵にカメラを返し、短く言う。
「今夜、動く。警察は張る。……お前は来るな」
「来ないわけないでしょ」
恵の声は、思ったより静かだった。
店を出ると、昼の光の中に、さっきまでの火の匂いがうすく漂っていた。風が変わる。
恵はポケットの中で、布に包んだカッターナイフの重みを確かめる。〈K-17〉という小さな数字が、掌の皮膚に刺青のように記憶される。
死角は、紙の上だけじゃない。人の視線の癖、匂いの残り方、足音の間合い――全部、設計できる。
恵は空を見上げ、アーケードの鉄骨越しの白さに目を細めた。
「今夜、風はどっち」
「北から。坂下の路地は渦を巻く」紅村の声は、淡々としていた。「火は、右へ逃げる」
第3章 坂下23:10
夜の風は約束通り、北から来た。坂下の路地は、斜面のせいで空気が巻き、街灯の光が渦の形に揺れる。配電盤の小屋は豆腐のように四角く、壁には古い広告の糊がまだ残っていた。
恵はカメラの感度を上げ、黒いフードを深く被る。紅村はいつもの白シャツではなく、濃いグレーのウインドブレーカー。マスク越しに息が白い。
「警察は大通りに張ってる。こっちは、誰も見ない風の曲がり角」
「死角の三角形」
「そう。カメラの画角と、灯りの届かない範囲と、風の逃げる方向が重なる場所」
遠くで無線の雑音。父の声はここまで届かない。
恵は配電小屋の扉の蝶番に目を凝らす。薄い緑の粉が、そこにも付いていた。
「緑、まただ」
紅村が頷く。
「塗料じゃないかもしれない」
「じゃあ何」
「蛍光粉。高所作業で目印にする。紫外線で光る」
言われてみれば、粉は夜でも妙に白っぽく見える。
23時を回ると、路地の温度が一段落ちる。自動販売機のモーター音が、やけに大きく響く。
23:07、角の向こうにスモールだけ点けたバンが現れた。白い、古い箱型。側面の文字がテープで剥がされ、うっすらと跡が残っている。
――□□看板……田?
恵が息を止めると、バンは配電小屋の前で一瞬だけ止まり、エンジンを切った。ドアが静かに開く。
細い男が降りる。フードにキャップ、脚をわずかに引きずる。片手に黒い工具箱、もう片手に布袋。
「来た」
紅村は恵の肩を軽く叩き、指で“待て”のサインを出す。
男は周囲を見回し、配電小屋の扉に耳を当て、鍵穴に何かを差し込む。カチャ、と乾いた音。扉はあっけなく開いた。
中から、淡いオレンジの光。タイマーのデジタル表示が点き、コンセントの束。
恵の背中を冷たい汗が伝う。
「電気火災に見せかける気だ」紅村の声が低く沈む。「でも、それは目くらまし」
男は小屋の中に布袋を置き、手早くコードを処理する。視線は落ち着き、動きに迷いがない。
恵は望遠で、男の手元にピントを合わせる。軍手の指、緑の粉。手首に巻かれたビニールのバンドに、マジックで〈K-17〉と書かれている。
――同じ記号。
シャッターが一度だけ鳴った。男の首が跳ねる。
「まずい」
紅村が恵のフードを引き下ろす。同時に、路地の反対側でパトライトが一瞬だけ赤を投げた。
男は工具箱を閉め、配電小屋の扉を押さえながら、視線だけで逃げ道を測る。北からの風が彼のフードを少しふくらませる。
次の瞬間、男は小屋の脇の植え込みへ何かを滑り込ませた。銀色の缶――。
「発煙!」
紅村の声と同時に、白い煙がもくもくと立ち上がり、路地の空気を右へ押し流す。視界が削られる。
恵は思わず口を覆った。ピリピリする匂い。
「こっちじゃない。左のくぼみ」紅村が囁く。「風が逃げない場所に、本命がある」
二人は壁づたいに移動し、配電小屋の裏のくぼみに回り込む。そこは街灯の影、カメラの死角。
恵の靴がやわらかいものを踏んだ。見下ろすと、黒いゴムマット。その下から細い線が伸び、小さな紙箱へ。
「触るな」
紅村は手袋をはめ、そっとマットを持ち上げる。ゴムと金属の触れ合う、いやな音。
紙箱の中には、黒くて小さな装置。赤い点滅。
「タイマー式の着火装置?」
「電熱。……だけど電源は?」
恵は周りを見回す。壁の影に延びる黒いコードの先に、足元の排水口の蓋。
紅村が蓋をずらすと、中から丸めた延長コードが出てきた。
「配電小屋から引いてる。見せかけの火事と、本物を時間差で撃つつもりだ」
恵の喉が鳴る。父の無線は、遠い。
「止める?」
「止める」
紅村は深く息を吐き、点滅装置のコネクタを捻って外す。赤い光が消える。次に延長コードを引き抜く。
そのわずかな間に、正面から足音。
「動くな!」
男が戻ってきた。煙の向こうから、刃物の銀。
恵の背中が壁に張り付く。喉の奥が熱い。
「警察は向こうだよ。今ならまだ逃げられる」紅村が落ち着いた声で言う。「でも、お前の仕掛けは撮った。K-17。配電の偽装。協力者もいる」
男の目が細くなる。
「……黙れ」
刃がわずかに震える。彼の靴の踵の欠けが、白い粉に三角形を描く。
次の瞬間、路地の上で金属が鳴った。
「頭下げろ!」
紅村が恵を抱き寄せる。上から落ちたのは、足場のパイプ。男が用意していた退路の罠が、煙と同時に動き出したのだ。
恵の耳で世界が一瞬止まり、次に音が戻る。男の足がもつれ、刃が石畳を擦った。
恵は反射でシャッターを切る。閃光。男の顔半分、フードの影、頬に斜めの傷。
「やめろ!」
怒声と足音。父だ。白手袋が闇を裂くように伸び、男の手首をひねる。刃が落ち、石に跳ねた。
「確保!」
路地に青い光が満ち、煙が後ろへ吸い込まれていく。
捕まった男は、うつむいたまま黙っている。制服警官が手錠をかけるとき、男の腕のバンドが露わになった。〈K-17〉。
父の目が、恵のカメラと男の腕を往復する。
「お前は、来るなと――」
「来なかったら、燃えてた」紅村が静かに言う。「配電小屋の裏だ。風の渦の中心。警戒線の外」
父は返事の代わりに、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
「……現場保存。痕跡採取」
鑑識班が動き始める。恵は壁にもたれて、ようやく息を吐いた。指が震え、カメラのストラップが濡れた手に絡む。
連行される男が、ふと恵の方を見た。視線が刃より細い。
「……俺は、頼まれただけだ」
声は意外にも幼い。
「誰に」恵の声が出る前に、父が訊いた。
男は笑うでも泣くでもなく、低く言った。
「地図を書いたやつに。死角の地図。赤い丸のやつ」
恵の背筋に冷たい針が並ぶ。
「どこで受け取った」父。
「再開発の現場事務所。夜。……看板の仕事の斡旋だって。『嫌われる役は若いのがいい』ってさ」
紅村の視線がわずかに揺れ、恵はそれを見逃さない。
「先生、知ってる会社?」
「看板か、警備か。どちらも出入り自由だ。……『赤い丸』を配ったやつは、まだ外にいる」
父が無線に短く指示を飛ばす。恵は配電小屋の扉に貼り付いた小さな紙片を見つけた。指先でひらりと外す。
――《監視強化範囲図》
書式は昨夜と同じ。右下に、また青いボールペンの走り書き。
〈K-17 撤去〉
「撤去……?」
紅村が紙を光に透かす。地紋の中に、小さな水印が見えた。
〈KOHSEI SECURITY〉
コウセイ。K。
恵は喉の奥で名前を繰り返す。
「先生。学校の防犯カメラ、夏に業者が入れ替えてたよね」
紅村は目を細め、夜の風を吸い込んだ。
「記録は、火より速い。……でも、書き換えるのはもっと速い」
遠くで最終電車が通り、坂下の路地の渦がほどけていく。
恵は父の背中と、連行される男の細い肩と、配電小屋の四角い影を交互に見た。
火はひとまず止まった。けれど、地図を描いた手は別にある。
死角の設計図は、まだ途中だ。
第4章 地図を描く手
再開発の現場事務所は、夜になると海のコンテナみたいに冷たかった。プレハブの壁には蛍光灯の白が浮き、入口のマットは雨で湿っている。
恵と紅村は敷地の外、フェンスの影から様子をうかがった。中では警備員が缶コーヒーをすすり、テレビの音が薄く漏れている。
「父さんは、警備会社の名前を絞るって言ってた」
「それはそれ。こっちは、地図を見る」紅村は目の高さで手のひらをかざし、建物の内側の光の揺れを読む。「今、交代。入口の視線が切れる」
二人はフェンス沿いに移動し、資材の影から素早く事務所の裏へ回った。裏口は半開き。中の空気は紙と溶剤と、揚げ物の油が混ざった匂いだ。
「恵、三十数えるまで、何も触るな」
彼の声は低いが、落ち着いている。恵はうなずき、カメラを胸に抱えた。
廊下は狭く、壁際に段ボールの書類箱が積まれている。ドアの隙間から、コルクボードに貼られた大判の用紙が目に飛び込んだ。
――《監視強化範囲図》
赤い丸が三つ、点と点を線で結ぶように配置され、その線から外れたところに、薄い鉛筆の矢印で〈回避〉と書き足してある。右下の隅には、水印が淡く浮いた。
〈恒誠SECURITY〉
恵は反射で息を吸い、シャッターを切る。
紅村が指で地図の端を軽く持ち上げる。紙は厚い。表面に細かい地紋、用紙の銘が外国のものだ。
「現場じゃ買えない紙。印刷は本社か大きい拠点」
「ここで回覧して、夜に回収する……?」
「あるいは、朝には別の紙に差し替える」
机の上には黒いバインダーが置かれていた。背表紙に白いテプラ。
〈K-17〉
恵は喉の奥が熱くなるのを感じる。紅村はバインダーを開き、ページの端だけをめくる。
リスト、日付、写真のサムネイル。ゴム手袋の指が、ページの上を滑るたび、紙がかすかな音を立てる。
「資機材の配備記録。K-17は、若手班の番号らしい。……ここ」
恵が覗き込むと、〈K-17〉の欄に〈坂下〉〈電熱〉〈撤去〉の文字と、角にスタンプが押されている。
その下――入退室の記録。タブレットのスクリーンショットが印刷されていた。
〈08/28 19:42 K M〉
〈08/28 21:03 S.KOZ〉
イニシャルの羅列の中に、妙に目に残る二文字。K M。
恵は横顔で紅村を見る。
「先生の……」
紅村は一瞬だけ笑い、すぐに消す。
「僕の名前は二十五通りに略せる。そのうちの一つがこれだ」
そのとき、廊下の奥でドアが開く音がした。恵は反射で机の下に身を滑り込ませ、紅村はコルクボードと壁の間の狭い影へ体を細くする。
「――で、例の紙は?」
低い男の声。
「朝に回収した。『組合』がうるさいからな」
別の声が答え、足音が近づいてくる。机の上のバインダーの端が、風でぴらりと浮いた。
恵は息を止める。靴音が机の横で止まり、紙が二枚、金属クリップから外される音がする。
「これも処分。足がつく」
「水に入れておけ」
コップが触れ合う乾いた音。彼らは地図を巻き、廊下の奥へ消えた。ドアが閉まる。
紅村が影から現れ、恵に手を伸ばす。
「今だ」
二人は机の上のコピー用紙をめくり、下に隠されていた薄灰色の用紙を引き抜く。
《監視強化範囲図(改訂案)》
赤い丸は四つに増え、最後の丸は、学校側へ跳ねるように描かれていた。
――理科準備室。
恵の背筋に冷たい汗が走る。
「狙いは学校?」
「再開発の“障害”は、街だけじゃない。『治安の悪化』は購買力の敵だ。学校で火が出れば、理由が増える」
紅村の声が硬くなる。
廊下の奥で、再び扉が軋み、笑い声が混じる。
「ほら、火災報知の実演、明日のデモ用。煙筒はどこだ」
笑い声の直後、事務所の別の部屋でけたたましいベルが鳴った。壁の受信盤が赤く点滅する。
恵は肩をすくめた。
「演習……?」
「いや、耳を塞ぐための音だ」
紅村が用紙を丸めた瞬間、廊下の反対側の窓の外で、銀色の筒がプシッと吐いた。白煙が入り口から流れ込む。さっきまでの警備員が叫びながら飛び出し、足音が乱れる。
「行くぞ」
紅村は恵の手首を取り、裏口へ引いた。二人は煙の薄い層に身を沈め、資材の影へ滑り出る。白が夜に溶け、音だけが大きくなる。
フェンスの内側、灯りのない角で誰かが立ち止まった。
「誰だ」
低い声と、足場を踏む鈍い音。恵は反射でシャッターを切る。閃光の中、男の輪郭、頬に縦の古傷、青い作業着の胸ポケットに社章。
〈恒誠〉
その男が眩しさに顔を背ける一瞬、紅村は地面に落ちた小さなカードを拾い上げた。
入退室カード。裏に、滲んだイニシャル。
〈K M〉
男の視線がそれに吸い寄せられる。
「それ、どこで――」
紅村はカードを指で弾き、フェンスの外へ投げた。カードは草むらに消える。
「失くし物なら、明日の朝までに探せばいい」
彼の声は、妙に滑らかだった。男が一歩踏み出す。
そのとき、敷地の表でパトカーのサイレンが上がった。父の声が拡声器を通して響く。
「敷地内の作業を中止し、出入口で身分証を提示してください――」
騒ぎの中、二人はフェンスを回り込み、暗がりに逃れた。恵の喉は砂を飲んだみたいに痛い。
「先生。K M……」
「僕のカードじゃない」紅村は静かに言う。「今日初めてここに来た」
「でも、ログにはK Mが」
紅村は息を整え、わずかに笑った。
「イニシャルは便利だ。『紅村真』にも『恒誠本社』にも、同じ二文字が含まれる」
「……先生、前はどこにいたの」
「煙の色を配合して、避難訓練を演出する会社。名前は忘れた」
冗談めかした声だが、目は笑っていない。
翌朝。学校の玄関前で、父が待っていた。
「恵。お前は新聞部としては優秀だが、娘としては減点だ」
「それ、いつも言う」
父は紅村に視線を移す。
「君には任意で話を聞きたい。昨夜の現場で、君のイニシャルの入ったカードが拾われた」
紅村は頷く。
「いいですよ。授業の合間に」
「今だ」
恵が口を開きかけたとき、紅村が肩に触れた。
「大丈夫。授業は“臨時”だ」
その言い方に、ほんの刃のような皮肉が混じる。
放課後、恵は写真部室でSDカードを確認した。昨夜の閃光の一枚――男の頬の古傷と社章がくっきり映っているはずの写真が、どこにもない。
代わりに、同じファイル名と時刻で、ぼんやり白いノイズの画像に差し替わっていた。
「……記録は書き換えられる」
恵は呟き、指を握る。
サムネイルを送る矢印に人差し指を滑らせながら、別の一枚に目が止まる。
《監視強化範囲図(改訂案)》の端。赤丸四つ目の小さな文字。
〈学内導線要再設計〉
そして、その下に、青いボールペンの走り書き。
〈理科準備室/回避→〉
――燃やすのではなく、避ける。
恵はハッとした。
「火は、おとり……?」
理科準備室。その『回避』の先は、階段裏の倉庫、古い薬品棚へ矢印が延びている。
ちょうどそのとき、スマホが震えた。父から。
〈今夜19:00 理科準備室 立入禁止。学校側の要請〉
要請、だれの?
恵は視線を教室棟の窓に上げる。夕日の反射の中、理科準備室の扉が、ゆっくりと影の中に沈んでいく。
風は北から南へ。夜になれば、階段の下にたまる。
第5章 理科準備室/回避
午後七時。校舎は放送で「立入禁止」を繰り返し、廊下の照明が一本おきに落とされていた。風は北から、階段の踊り場に渦を作る。
恵は新聞部の赤い腕章を上着の内側に隠し、理科棟の裏口から忍び込んだ。鍵は掛かっているはず――なのに、ドアの受けが紙一枚ぶん浮いている。マグネットのセンサーに、半透明の板でこっそりスペーサーが挟まれていた。
「ドアは閉まっている“ふり”」
背後から低い声。振り向くと、紅村が立っていた。白衣ではなく黒のパーカー、首元に薄いライト。
「警察は?」
「正門。『立入禁止』を守って、死角を増やしてる」
二人は足音を殺し、理科準備室へ向かう。廊下の天井のドームカメラは、微妙に上を向いている。縁にうっすら、ワセリンの指痕。
「見えるように、見えなくする」恵が言うと、紅村はうなずいた。
「回避の矢印が案内するのは、人じゃない。荷物だ」
理科準備室の扉は鍵が掛かっていた。だが鍵穴の縁に、緑がかった粉が点々と付いている。紫外線ライトを当てると、粉は淡く光った。
「蛍光粉。運搬経路のマーキング」
恵は息を止める。
「でも、鍵……」
「鍵なら、誰かが持っている」
ちょうどそのとき、反対側の階段からゴム底の足音。影が一つ。恵は掃除用具入れに身を押し込み、紅村は消火栓の陰へ身体を薄くする。
入ってきたのは、作業着の男。青い胸ポケットに〈恒誠〉の社章。頬に縦の古傷。肩には空のリュック、手には養生テープと薄い金属の缶。
男は合鍵で器用に扉を開け、素早く中へ。
恵は唇を噛み、紅村の目を見る。無言のうなずき。そのまま二人も影のように滑り込む。
理科準備室の空気は、古い紙と薬品と、湿った木の匂いで満ちていた。棚の一番上、茶色い瓶に白い結晶が蜘蛛の巣みたいに張り付いている。
紅村が囁く。
「エーテル。古いのは危ない。口の周りに結晶が生えたら、振るだけで爆ぜる」
男はマスク越しに鼻を鳴らし、棚から瓶を三本、慎重すぎるほど慎重に取り出す。瓶の底には、青いテープで〈回避〉と書かれた小さなタグ。
「持ち出す気だ」
恵の声は喉の奥で震えた。
紅村は人差し指を立て、男の背後の床を指す。蛍光粉が小さな点線になって、棚から扉まで続いている。点線は廊下へ、廊下から階段へ、階段の踵に沿ってサービス門の方向へ。
「導線の再設計。学校そのものを“危険物の通路”に変えてる」
男がふと振り向いた。恵は咄嗟に棚の影に滑り込む。紅村は隣の薬品庫の扉を半分開け、その隙間に体を吸い込ませた。
男はリュックに瓶を縦に入れ、缶を開けた。中は白い粉。
「塩素酸塩……」紅村が唇だけ動かす。「酸化剤だ。火じゃない、爆速の『炎』になる」
男は粉を少量、耐熱袋に移し、養生テープで封をする。手際が良い。
そのとき、恵の足元で小さく「コト」と音がした。カメラのレンズキャップが、膝から落ちたのだ。
男の首が跳ね、目が細くなる。
「誰だ」
静寂の破れ目に、紅村が現れた。両手を上げ、わずかに笑う。
「搬出手順が雑だ。瓶は縦に、衝撃吸収材はもっと柔らかいのを」
男は半歩退き、腰からカッターナイフを抜いた。銀が光る。
「またお前か。『先生』」
恵が飛び出しかけるのを、紅村が目だけで制す。
「俺は頼まれただけだ。学校の倉庫が危ないから、撤去してくれと」男は吐き捨てる。「撤去票もある」
差し出された紙には、学校の印影が青く押されていた。〈危険物処理委託 理科準備室〉――校長の名前。
紅村は紙を光に透かし、指先で角をつまむ。
「インクが新しい。スタンプ台の油が乾いていない。……今押したな」
男の目が動く。刃先がわずかに下がった。
紅村は一歩、瓶の近くに寄る。
「それを外に出すと、君の雇い主は“学校管理の杜撰”を喧伝できる。『再開発の障害がまた一つ減った』ってな」
「黙れ」
「黙らない」
紅村の声は低く、しかし芯が硬い。「君の靴の踵、三角に欠けてる。昨日の坂下でも見た。『K-17』。若手班だろう。でも、昨日捕まったのは別の“若手”。君は班をまとめる側――地図を配る側だ」
空気が変わった。男の視線が一瞬だけ斜め上を泳ぎ、次の瞬間、扉の向こうでアラームが鳴り出した。廊下の煙感知器に、白い煙がもくもく。
「煙筒!」
恵が叫ぶより速く、男はリュックの口を閉めて踵を返す。
紅村が手を伸ばし、男の肩を掴む――が、男はリュックを投げてフェイントを入れ、消火器を引っこ抜いて粉を噴射した。白い壁。視界が一気に溶ける。
「恵、伏せろ!」
粉が肺を刺す。咳で視界が跳ね、耳の中でベルが暴れる。
恵は這うようにリュックに手を伸ばし、冷たいガラスの触感に触れた。やばい、割れたら――。
紅村が上から覆いかぶさり、リュックを恵の体と床の間に挟み込む。
「動くな。揺らすな。瓶の口に結晶がある」
男の足音が廊下へ消える。遠くで非常口が軋む音。
紅村は床を這い、流し台の下からプラ容器を引っ張り出す。
「水槽だ。水に沈める。浮力で衝撃を殺す」
「そんなこと、どこで――」
「前職」
短く、それだけ言うと、彼はリュックから一本ずつ、瓶を抜いた。恵がライトで瓶の口を照らすと、白い針状の結晶が星座のように口縁に付着しているのが見えた。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない。……でも、いける」
紅村は息を止め、瓶をゆっくり水に沈める。水面が丸く震え、瓶が底に落ちて小さくコトリと鳴る。
二本、三本。
恵は膝で床を蹴り、流し台のホースを伸ばして他の容器にも水を満たす。粉の匂いと薬品の匂いが交じり合い、喉の奥が痺れる。
「よし」
紅村が額の汗を拭った瞬間、廊下から足音。
「警察――!」
父の声だ。
恵は立ち上がりかけ、思い直して、床の蛍光粉の点線を指さした。
「ここ。導線」
父は一瞥で理解し、無線に指示する。
「サービス門に二人回せ。中継カメラ、理科棟裏へ。……おい、お前」
娘に向ける声は、いつも通り少しだけ厳しい。
「無茶はするな」
「したよ。もう」
廊下の煙が薄くなったころ、教頭が顔を出した。スラックスに、濡れた傘。驚いた顔――という演技。
「な、なんで立入禁止なのに」
父は教頭の胸元の名札を見下ろす。端に白い粉が付いている。
「立入禁止にしたのは、どなたの要請でしたっけ」
教頭は笑い、すぐ消した。
「市の方から……」
「市? それとも“恒誠”?」紅村の声が静かに割り込む。「撤去票の印影、校長室のとは違う。印面に微小な傷がない。新しく彫った偽印だ」
教頭の喉仏が上下する。
父が踏み込もうとした瞬間、外の中庭でタイヤの音が鳴った。
「裏門だ!」
警官の声。
恵は窓に駆け、校庭の木立の間をライト無しで走り去るワンボックスの影を見た。側面の剥がれ跡――白いテープで消された社名。
――□□看板。
風が変わる。夜のはじまりの匂いが、教室のカーテンを膨らませた。
事が収まったあと、父は水に沈んだ瓶を見下ろし、深く息を吐いた。
「……命拾いしたな」
「火は、おとりだった」恵が言う。「『危険な学校』の物語を作るための」
紅村が頷いた。
「本命は明日だ。商店街で『防災デモ』がある。スポンサーは、再開発連合と恒誠。煙の色も、逃げ道も、最初から決めてある」
父は無線を握り直し、恵を見た。
「来るなとは言わない。だが、命は置いていけ」
恵は薄く笑う。
「命は、持っていくよ。カメラも」
その夜遅く、恵は部屋の机に地図を広げた。赤い丸をつないだ線の外側に、鉛筆で小さく矢印を書き足す。
〈回避〉ではなく、〈突風〉。
アーケードの風の流路。監視カメラの死角。足場の影。
「嘘は、いつも死角にいる」
紅村の言葉を、今度は自分の声で繰り返す。
明日の風は北から――予報は関係ない。商店街の路地は、建物の形でいつも同じに渦を巻く。
恵はシャッターの指を握り直した。
第6章 風の証言
翌日の商店街は、人で溢れていた。ポン菓子の破裂音、子どもの笑い声、舞台では「防災デモ」の横断幕が揺れ、恒誠セキュリティのロゴが規則的に光っている。
恵は脚立の上からファインダーを覗き、アーケードの天井を走る風の筋を読む。薄いマイラー片を昨夜のうちに梁へ結わえつけておいた。ひらひらと、北から南へ、一定の拍で流れる。
「風は、予定通り」
紅村は観客の波に紛れ、黒いキャップを目深にかぶっている。胸ポケットには、小さなUVライト。
「父さんの配置は?」
「左右の路地に一個ずつ。合図は、ベルトの無線を叩く三回」
舞台に上がったのは、スーツに蛍光ベストを羽織った男。髪をきっちり撫で付け、胸の名札には〈恒誠 営業課長 神前(こうざき)真人〉。
――K M。
恵は喉の奥を鳴らし、視界の端で教頭が緊張した笑顔を貼り付けているのを捉える。
「本日は、安全な避難のための煙の使い方を――」
神前の声はよく通る。袖口から覗く手の甲に、粉が薄くついて白く見えた。恵の鼻に、昨夜と同じ蛍光粉の粉っぽい匂いが届く。
デモが始まる。銀色の筒から白い煙が吐き出され、アーケードの天井に沿って右へ流れる。スタッフが「こちらへ!」と観客を誘導し、赤いコーンで道を作る。
恵は、煙の裾野が古本屋「書肆ほしぞら」の庇に触れた瞬間、シャッターを切った。
舞台裏で、青い作業着の男――頬に縦の古傷――が足場を上がるのが見える。手には小さな銀の缶。
「来た」
紅村の声に、恵はうなずく。
「合図まで、二十秒」
風は北から。マイラー片が、一斉に左へ伏せる。
恵は脚立の上で腕を伸ばし、梁から垂らしておいた透明のロープを引いた。アーケードの一角、取り壊し予定の横断幕がばさりと開き、隠していた小型の扇風機が一斉に回り出す。
観客の髪がふわりと揺れ、煙が巻き上げられて舞台側へ返る。
神前の眉がわずかに動く。
「風、が……?」
恵は胸ポケットの無線を指で三回叩いた。
――カン、カン、カン。
同時に、商店街の両側の路地で、紫の光が灯った。父の部下たちが持つUVライトが地面を掃く。
タイルに、蛍光の矢印と、掌の形と、点線が一気に浮かび上がる。昨夜から撒かれていた蛍光粉の「導線」が、夜用のはずの光で真昼に現れたのだ。
観客がざわめく。
「なに、これ」
「矢印?」
神前の靴の甲にも、青白い粉が濃く光っている。袖口、指先、名札の角。
紅村が舞台袖に現れ、マイクを奪うように拾い上げた。
「避難誘導の“実演”は素晴らしい。だが、その矢印は何だ? 昨日の夜から街に撒いて、火の回し方と逃げ道の作り方を示した――『死角の設計図』だ」
神前は笑ってみせる。職業的な笑顔。
「それは、商店街の安全のための路面表示です。昨日、我々が夜間に――」
「では、どうして古本屋の前にだけ、緑の三角がある」恵が遮る。「看板屋のマーキングだよ。昨日の夜から、何度も見た」
神前の目が恵を射る。
「高校生は黙っていなさい」
その瞬間、舞台裏で乾いた音。足場の上で、古傷の男が銀の缶に火を近づけた。
紅村はマイクを投げ、足場へ走る。
「恵、上!」
恵は脚立から梁へ体を移し、反対側のロープを引いた。仕掛けておいたビニールシートが風を受け、煙の流路がもう一段、舞台側へ押し戻される。
足場で紅村が男の手首を掴む。缶の火が鈍く光り、二人の腕がせめぎ合う。
「やめろ。お前の“撤去”はもう終わった」
男は唇を噛み、目だけで観客席の隅を見た。そこには教頭。両手でスマホを胸に押し当て、まるで祈るように固まっている。
紅村の指先が緩む一瞬、男は肩で突き、足場の縦棒を蹴った。銀の缶が宙を描く。
「だめ!」
恵は手を伸ばし、胸で缶を抱え込んだ。熱が制服越しに刺す。咄嗟に、昨日の配電小屋で学んだやり方が身体を動かす。
――酸素を遮る。
恵は缶を床に押し付け、上から自分のショルダーバッグを被せた。布を通して熱が鈍り、臭いが薄れる。
足場の上で、紅村と男がもつれ、手すりにぶつかる。鉄の鳴りが腹に響く。
「先生!」
紅村は短く頷き、相手の手首を捻る。銀の刃が落ち、鉄骨に当たって跳ねた。
同時に、父の声が拡声器を裂いた。
「その場で動くな! “恒誠”の神前真人、業務上過失と威力業務妨害の疑いで任意同行だ。手を広げろ!」
神前はなおも笑顔を崩さない。
「誤解です。我々は安全を――」
「では、答えろ」父の声が低く鋭い。「昨夜の『監視強化範囲図』の地紋はお前の社の用紙。右下の『回避』はお前のボールペンの癖字だ。K-17の班と坂下の配電小屋のログ、カードID“KM”は営業課長用のマスターカード。『KM』は紅村ではない」
神前の微笑が、わずかにひび割れた。
「証拠は」
「そこで光ってる」恵が言い、シャッターを切る。
フラッシュが瞬き、神前の袖口、手の甲、足元の矢印が紫に輝く。彼が昨日から触れてきた“導線”そのものが、彼を証言台に立たせる。
人波がざわめき、誰かが指差す。
「手、真っ青だぞ」
教頭が後ずさり、スマホを落として逃げようとした。父の部下が腕を押さえ、ポケットから青い印影の撤去票を抜き取る。
「校長の印影を偽造したな。印面の傷が違う」
教頭の顔から血の気が引く。
神前はふいに観念したのか、息を吐いて肩を落とした。
「やれやれ。真面目にやっても損をする街だ」
紅村が足場から降りながら、静かに言う。
「嘘は、死角に隠れても、風に触れる」
騒ぎが一段落したころ、古傷の男がパトカーの脇でうなだれていた。恵が近づくと、彼は顔を上げる。
「……俺は、頼まれたから」
「頼まれてもしないほうが“頼られる”よ」
恵の声は、自分でも驚くほど静かだった。男は一度だけ頷き、目を伏せた。
夕暮れ。商店街の空は、アーケードの格子の向こうで薄紫に染まっている。古本屋の店先に掲げられた短い紙が目に入った。
《本日の営業、続けます》
星野みどりが、恵に穏やかにウィンクを送る。
「写真、後でちょうだい。新聞にして広めなきゃ」
「もちろん」
人の波がほどけ、片付けの音が遠くなっていく。父が恵と紅村の前に立った。
「……助かった」
彼は言い、恵の頭を一瞬だけ、ぎこちなく撫でた。
「いつもそれでいいよ」恵が笑う。「説教より軽い」
父は咳払いを一つしたあと、紅村に向き直る。
「君の前職、かなり危ないな」
「煙の色を配合して、人の動きを学ぶ仕事でした」紅村は肩をすくめる。「教える側も、たまには教えられる」
「学校には戻るのか」
紅村は少しだけ空を見た。
「臨時はいつか終わる。匂いの薄いところに行きます」
恵は思わず口を尖らせる。
「逃げるの?」
紅村は笑う。
「“回避”だよ。死角を作らないために、移動する」
彼は胸ポケットから折れた名刺を取り出し、恵に渡した。裏面には、細い字で一行。
〈記録は火より速い。君のシャッターはそれより速い〉
「また匂いがしたら、呼んでくれ」
「呼ばなくても嗅ぎつけそう」
「それな」
紅村が人の流れに消えると、夜の風が商店街をゆっくり撫でた。
恵はカメラの電源を落とし、最後にもう一度だけファインダーを覗く。
消えかけた監視カメラのドーム、修理される梁、ほこりを払う誰かの手。
死角は、もう地図の上だけにあるわけじゃない。誰かのまぶたの裏にも、明日のための余白として残る。
シャッター音は、小さな約束みたいに短く響いた。
秋の夜。書肆ほしぞらの看板の灯りが、揺れの少ない風にやわらかく立っていた。
恵は鼻からゆっくり息を吸い込み、微かな紙とインクと、遠くの珈琲の匂いを胸に収める。
――嘘は、いつも死角にいる。
でも今夜、風はそれを、みんなの前に運んでくれた。
(完)
後日談
春一番の前日、商店街のアーケードが完全に外された。空は思っていたより低く、風は渦をつくらずにそのまま通り抜ける。
恵は「書肆ほしぞら」の軒先で、星野みどりから封筒を受け取った。
「こないだの写真、ポスターにしたよ。うちだけじゃなくて、商店街の掲示板にも貼るって」
封筒の中には、UVライトの紫に浮かぶ矢印と、群衆の上に立つ恵の影が写っていた。あの日の空気が紙の中でまだ微かにざわめいている。
「……これ、光らないと意味がないのに」
「昼でも効くのよ。“見えなかったものが見える気持ち”を、もう知ってるから」
店を出ると、風にのって甘い匂いが移動してきた。焼いた砂糖の匂い。新しくできた屋台だ。匂いに混じって、別のわずかな金属臭――恵は振り向く。
「先生?」
電柱の影から、黒いキャップの男が手を振った。紅村だった。
「匂いが薄くなったら、挨拶に来ようと思ってね」
「逃げるんじゃなくて、回避だって言ってたくせに」
「回避の先に、戻るルートもある」
二人で並んで歩き出す。アーケードが消えた通りは、風の筋が変わっていた。紅村は指先を斜めに立て、空気の角度を測る。
「ほら、以前の『死角』が一つ消えた。風がまっすぐ来る」
「じゃあ、嘘はどこに隠れるの」
「次は人の心。だけど、写真と記録はそこにも届く」
交差点で、鑑識ジャケットを肩に掛けた父に会った。
「お、二人か。……恵、卒業おめでとうはまだ早いが、新聞部の取材許可は続行だ。市の防災広報から依頼が来てる」
「ほんと?」
「“見えるように見えなくする”悪さを、今度は“見えるように見せる”ために使え」
父はぎこちなく笑い、歩きながらポケットから小さなライトを渡した。UVライト。
「返さなくていい。お前の道具にしろ」
恵は受け取り、親指でスイッチを入れる。薄い紫が路面を舐め、何もないはずの床に、誰かの古い靴跡だけが一瞬浮かんだ。
「風が運んだ、昨日の約束だ」紅村が言う。
「じゃ、これからも嗅ぎつけたら、呼ぶから」
「呼ばれる前に来るよ。風下は鼻がムズムズするから」
夕方、通りの端で子どもがポン菓子に驚いて笑った。恵はカメラを上げる。
シャッターの音は、あの日と変わらない。けれど写るものは少し違う。
死角はきっとまたどこかに生まれる。誰かが都合よく地図を引き直すたびに。
でも、風はそこで立ち止まらない。
恵は紫のライトをポケットにしまい、次の一枚に指をかけた。
登場人物紹介
主人公・バディ
百目鬼 恵(どめき・めぐみ)/17 県立高・新聞部
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特徴:観察眼と行動力。写真は“証拠”として撮る主義。
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得意:匂い・足跡・導線などの“痕跡”を写真で可視化。瞬間判断の速さ。
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弱点:危険への距離感が近すぎる。父との確執で感情が先走ることも。
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キーアイテム:一眼カメラ、予備SDカード、簡易UVライト。
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一言:「記録は、火より速い。」
紅村 真(くれむら・まこと)/28 臨時理科教師
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特徴:冷静沈着。匂いと風の読みが異様に鋭い。
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経歴:防災演出・訓練関連の民間会社にいた“匂いのプロ”。
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得意:化学・可燃性物質の取り扱い、現場判断、即席のリスク低減策。
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弱点:経歴を語りたがらず、誤解されやすい。
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キーアイテム:小型UVライト、使い古しの油性ペン、薄手の手袋。
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一言:「嘘は、いつも死角にいる。」
警察・家族
百目鬼 左近(どめき・さこん)/45 県警鑑識・恵の父
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特徴:職人気質。沈黙が刃になるタイプ。
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得意:現場保存と痕跡採取、書式や印影の見抜き。
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弱点:娘を守る気持ちが強く、距離を誤る。
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一言:「無茶はするな。命は置いていけ……いや、持っていけ。」
商店街の人びと
星野みどり/62 古本屋『書肆ほしぞら』店主
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特徴:通る目と勘のよさ。地域の記憶のアーカイブ。
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役割:嫌がらせやマーキングの最初の被害者であり証言者。
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一言:「見えないものが見えると、人は強くなるよ。」
喫茶『東風(こち)』店主/60代
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特徴:寡黙。裏手の路地事情に通じる。
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役割:空き缶ロウソクの“未遂現場”の提供者。
事件側
神前 真人(こうざき・まさと)/39 恒誠セキュリティ営業課長
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特徴:滑らかな話術と現場運用の知識。
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役割:《監視強化範囲図》と“導線”を用い、街と学校のイメージを操作しようとした首謀。
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痕跡:袖口・靴・名札に残る蛍光粉、マスターカードID「KM」。
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一言:「安全のためだ——と言えば、誰も疑わない。」
K-17班の男(実行役)/26 作業着・頬に縦の古傷
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特徴:寡黙で手際が良い“現場屋”。踵が三角に欠けた靴。
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役割:配電小屋の偽装、タイマー式着火、学校からの“撤去”搬出。
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弱点:頼まれ仕事に流される。
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一言:「……俺は、頼まれただけだ。」
教頭/52 県立高
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特徴:保身的。外部圧力に弱い。
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役割:偽造撤去票への関与(印影の不一致)。
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一言:「市の方から、だよ……たぶん。」
キーワード付きサブ要素
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《監視強化範囲図》:赤丸と〈回避〉が追記された“死角の設計図”。用紙に〈恒誠〉の透かし。
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K-17:若手作業班コード。道具番号や腕バンドに記載。
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蛍光粉導線:夜間運搬・点検用マーキング。UVで矢印と掌紋が浮く。
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古い薬品瓶:理科準備室の“おとり”。エーテル結晶の危険管理が鍵。