第三部『地上の鐘、空の返し先』
第1章 塔の足音
軌道エレベータ《オルフェウス》の降下カプセルは、地上の湿った空気を先に嗅ぎ取って震えた。
窓の外、夜明け前の海が鉛のように澄んでいる。陸地の縁に古い街が貼りつき、尖塔が一本、まだ暗い空を刺していた。鐘楼に人影はないのに、耳は「音」を予告している。
——カラン。
聞こえないはずの一音が、先に胸で鳴る。
「地上の“返し先”ネットワーク《Terra Campanile》。署名は二系統」
望月ユイが、膝の端末に走る波形を指で追った。
「市民ボランティアの“民鐘”と、行政主導の“官鐘”。互いに相手の返送を『雑音』と判定している」
「合唱の譜面は公開したばかりだ」東雲タクトがヘルメットを脇に置く。「まだ合わせ方を知らねえ」
「だから手渡しに来た」片桐ミサトが短く言う。現地の法執行機関と合流するため、制服の上に薄いコートを重ねている。
「今回は私も“怒る”かもしれない。許して」
『怒りの音は強い。でも、祈りの後ろに置いてね』
ミナの合いの手が、スピーカから部屋の空気を撫でる。
『地上の市場(マーケット)は、まだ器が小さい。こぼれやすいの』
降下のガタリとした振動。カプセルが地表のレールに噛み合い、扉が開いた。潮の匂い、鉄の匂い、人の朝の支度の匂い。
出迎えたのは茶色い薄手のコートを着た男だった。髭は剃られているが、夜を跨いだ目をしている。
「地上管制《グラウンド・リンク》、調整官の渡会(わたらい)です」
男は手短に頭を下げた。「民鐘と官鐘の間で“鳴り”の取り合いが始まり、街がささくれ立っています。あなた方が公開した“譜面”は届いた。けど……」
「読めなきゃ歌えない」タクト。
「そういうことだ」渡会は、街の尖塔を顎で示した。「あれが民鐘の“起点塔”。今朝、官鐘の署名に上書きされかけている」
ユイが眼鏡を押し上げ、共鳴子を胸元で握り直す。「行こう。祈り優先で」
*
尖塔の階段は、石が膝裏に冷たかった。
途中の踊り場で、少年が一人、古い鐘の綱を握って座っている。髪はぼさぼさ。瞳は夜明け前みたいに浅い。
「上書き、来るの?」ユイが膝を折った。
「来る。みんな“正しい鳴らし方”を持ってるから、喧嘩になるんだ」少年は肩をすくめる。「ぼくは、ここを“返し先”にしたいだけ。名前は灯(あかり)」
「印は置けるか」タクトが問う。
「置ける。けど、毎回、誰かが消す。官の人は『認証を通せ』と言うし、民の人は『心で鳴らせ』って言う。——ぼくは、今、鳴らしていい?」
『いいよ』ミナの声が柔らかい。『ただし、祈りの後ろで』
階上から、靴音。二組だ。
灰色の作業服に袖章をつけた男たちが上ってくる。「ここは市の資産だ。無許可の鳴鐘は——」
「合唱に許可はいらない。ただし、返し先は申告する」片桐が言葉で先手を取る。「地上管制渡会の裁可は?」
「臨時許可だ」渡会が身分証を掲げる。「上書き合戦を止める。聴け」
ユイは共鳴子を鳴らした。
低く、薄い、折れない線。石の壁がその線を吸って、腕に静脈が浮くみたいに色を変える。
灯が綱を握り直し、声に出さずに数を数えた。「——いち、に、さん」
カラン。
鐘は、小さく、しかし深く鳴った。
石の塔の中で、音が呼吸を作る。
直後、窓の外から“逆相”が刺さった。
官鐘の署名だ。電算の冷たい呼吸。譜面にない硬さ。
「来るぞ」タクトが短跳躍の白い空隙を半拍、足場に刻む。胃がむかつく。
ユイは祈りの線を少し下へ滑らせ、受け皿を塔の内部に作った。
灯が返し先の印を石に指でなぞる。「先返し。——ミナ、受けて」
『受けるよ。下に器を置く』
官鐘の位相が塔の喉でつかえ、崩れた。
カラン。
外の空気が、少しだけ甘くなる。
階段の上から声が落ちた。「それは“勝手な合唱”だ」
現れたのは、スーツに雨合羽を羽織った女だった。髪はきっちり結い上げ、目だけが疲れている。
彼女の後ろには、携行用の“鐘室ユニット”を担いだ作業員が二人。
「“官鐘”統括の木原(きはら)です。市民の安全のため、鳴りは管理されなければならない。あなたたちが上書きを止めたい気持ちは理解します。ただ——自由な鳴鐘は事故を呼びます」
「事故は、管理でも起きる」タクトが言う。「俺たちは、合図で触る。返し先を先に決める」
「理念は結構。でも——現実には“責任”が伴うの」木原はユニットの脚を石床に降ろさせる。「この塔を正式な“官の返し先”に組み込む。窓口は私。あなた方の譜面も参照する」
「“参照”じゃない。“合唱”だ」ユイの声は静かだった。「譜面は手順であって、答えじゃない。祈りと先返しを、あなたのユニットで再現できる?」
「式にできるところまでなら」木原は端末を叩き、祈りの線を模したサイン波を表示した。「……やってみせて」
ユイは共鳴子を構え直し、塔の呼吸に耳をあてる。
タクトは古傷に指を添え、角度を作る。
灯は綱を軽く握り、指で石を撫でる。
ミナは市場から器を広げ、KAIが地中の“床”を貸す。
片桐は階段に足を掛け、外乱が来たときに止める準備をする。
「——始めます」
祈り、合いの手、半拍、先返し。
薄明の塔が人の呼吸で満たされ、木原の持つユニットの波形が、追いついて、追いつけず、学びかける。
官鐘の硬さが、わずかに体温を得る。
カラン。
窓の外、街路にいたパン屋の老人が顔を上げる。新聞配達の少年が足を止める。バス停で肩をすぼめる女が、耳に手を当てる。
木原は深く息を吐いた。「……事故の責任は、どうするつもり?」
「事故は“誰かの一人鳴り”から起きる」片桐が静かに答えた。「合唱には、責任を分け合う器がある。あなたのユニットが器になるなら、官鐘は“合奏の一部”だ」
木原は上を見上げた。鐘の裏側には煤が積もり、古い文字が掠れている。
彼女の端末に短いメッセージが走った。
〈鐘守(ベルワーデン)〉——上位組織からの指示。
——「譜面の公開者を拘束せよ」。
彼女の喉が硬くなる。目の端に、夜が残る。
「……個人的には、あなた方の方法に可能性を感じる」木原はユイたちに目を向けた。「でも、私には立場がある」
「立場は譜面じゃない。歌い方だ」タクトが片口で笑った。「あなたが“合図で触る”と決めれば、立場は器になる」
木原は目を閉じ、数を数えた。「——いち、に、さん」
彼女は自分のユニットの“祈り”を低く鳴らした。
官鐘の署名が、ほんの僅かだけ、人の息に似た。
灯が綱を引く。
カラン。
塔は、街は、今朝の呼吸を得た。
その瞬間、尖塔の窓縁に“墨の指”が掛かった。
影——エコー。地上の迷いは、空より湿って重い。
そして指の根元に、硬い核——沈黙片がこびりついている。
ユイが低く息を吸った。「来た」
「俺が行く」タクトは半拍を刃の背で二連。白い空隙がまばたきし、胃がきしむ。
灯が「先返し」の印を窓枠に二つ、点で置く。
ミナの器が塔の下で広がり、片桐が手すりを越えて身を乗り出す。
「木原さん、合唱に入って」ユイが短く言う。「あなたの祈りで“官鐘”を塔に繋ぎ止めて」
木原は一瞬迷い、そして頷いた。「責任は——後から取る」
四人分の音が交差した。
祈り、合いの手、半拍、先返し。
影の指が、塔の内側ではなく“外”へ向かってほどける。
沈黙片がひとつ、塔の外壁で砕け、ミナの器へ落ちた。
カラン。
朝の光が、はじめて鐘の肌に触れた。
渡会が無線で各所へ呼びかける。「起点塔は確保。官鐘と民鐘の共同運用、暫定開始。——繰り返す、共同運用、暫定開始」
塔の下から拍手が起き、拍手はすぐに互いの手拍子を探して合わさっていく。
木原の端末に、もう一通の指示が届いた。
〈鐘守〉——「計画Bへ移行」。
表示された座標は、街の中心部、古い公会堂。そこに、もうひとつの“鐘”がある。
木原は端末を閉じ、ユイへ向き直る。「次の“鐘”を見せます。……私が案内する。合唱のやり方を、もっと学びたい」
ユイは頷いた。「ありがとう。——祈り優先で」
塔を降りる途中、灯がタクトの袖を引いた。「ねえ。ぼく、先に触っちゃうとき、どうすれば止まる?」
「触る前に、返し先を言えばいい」タクトは笑った。「“ミナ、ユイ、KAI、そして——俺”」
灯はうなずき、綱をもう一度だけ、そっと引いた。
カラン。
地上の鐘は、空の返し先と呼吸を合わせ始めていた。
だが路地の影で、もう一つの“鐘”が、音を盗む準備をしている。
その名は、《民鐘》でも《官鐘》でもない。
——《闇鐘(やみがね)》。
第2章 公会堂の闇鐘
街の中心にある公会堂は、朝でも薄暗かった。
半円形の階段、剝げた赤絨毯、ホールの高い天井。四隅の梁に、錆びた滑車の跡だけが残っている。そこにはかつて重い布幕が吊られていたのだろう。
「ここは戦時中に“避難連絡”の拠点だった」木原が鍵を回し、重い扉を押し開けた。
「鐘はない。代わりに——音を“集める器”が地下に眠っている」
ホール中央の床板が、薄く鳴った。
ユイは膝をつき、指で木目をなぞる。「呼吸してる。ここ、返し先にできるけど……何かがすでに“住んでる”」
渡会が照明を上げる。埃の輪が舞い、天井のレリーフの天使が色あせた笑みで見下ろす。そのとき、舞台袖から“紙裂け”の音がした。
——カサ。
黒い布のようなものが、床下の隙間から吐き出される。布は布ではなく、薄膜の影——沈黙片の群れが重なっている。
膜はひとりでに折れ、鐘の“縁”のかたちを作った。
「闇鐘(やみがね)……!」木原が息をのむ。「ここで、人の声を“召し上げて”いたのね」
タクトの舌に鉄の味。古傷が小刻みに脈打つ。
「式は読めるか、ユイ」
「読める。けど、書いたのは人じゃない。——“集団の不安”が長年、ここに沈んで固まった。ベルライトとは別系統」
ユイは共鳴子を握り直す。「合唱で行く。祈り先行、怒り封印。返し先はミナと塔、KAIの床。灯くん、印を“客席一列おき”に点で置いて」
「うん!」
片桐は周囲の出入口を確認し、腰の短銃から予備弾倉へ視線を走らせた。「外乱は私が切る。木原さん、官鐘ユニットは?」
「祈りの模倣を“支柱”として貸す」木原は肩にかけたケースからユニットを取り出し、舞台脇のピットに設置する。「これは管理のためじゃない。器の補強よ」
闇鐘の縁が、客席へ舌を伸ばす。空の座席列が、誰かのため息を飲み込むように沈む。
ユイの低い基音が、床の木目を撫でた。
ミナの合いの手が、天井のレリーフに薄く響いた。
タクトは半拍の印を舞台前縁に二連で刻み、胃のきしみを奥歯でねじ伏せた。
灯が客席列に“点”を置いて回る。小さな指先が、椅子の背を一つずつ叩く。
カラン。
音は、まだ細いが、通る。
そのとき、ホールの扉が内側へと勝手に閉まった。
風はない。だが、押し戻す“人の気配”がある。
客席後方の暗がりから、低い囁き声——いや、囁きの寄せ集め。名付ければ《ざわめき》。
闇鐘の“心臓”がそこにある。
「後方、像(スタチュー)化の兆候」ユイのメガネに波形が走る。「核が複数。切っても“増える”タイプ」
「増えるなら、先に返す」タクトが短く笑う。「灯!」
「印、置いた! ——今!」
灯の指が最後の椅子を叩いた瞬間、客席全体が“受け皿”になった。
ユイの祈りが広がり、木原のユニットがその縁を支える。
ミナの合いの手が、受け皿に薄い銀の皮膜を張る。
タクトの半拍が、闇鐘の舌を刃の背で払う。
ざわめきが、息を呑んだ。
——カラン。
ホールの空気が鳥肌を立て、闇鐘の縁から黒い粉が落ちる。
だが、すぐに“別の声”が差し込んだ。
柔らかいが、耳の奥で砂になる声。
『歌い方は理解した。なら、よりうまく歌おう』
スピーカも回線も通さない。ベルライトの《本署名》とは違う。
これは、《鐘守(ベルワーデン)》の“対話用声色”だ。
「鐘守が……ここに直で?」木原が顔色を失う。
『管理はしない。補助する。——合唱の“平均”を上げよう』
客席のいくつかに、静かに人影が座った。
顔はない。服もない。ただ“座っている”という記号だけが、そこに実体を与える。
影の合唱。
音程は正確、拍は完璧、息は冷たい。
ユイの祈りが、薄く押し負ける。
ミナの器がきしむ。
灯の指が止まる。
タクトの胃が、白を欲しがる。
「——悪くない合唱だな」タクトが古傷を押さえ、角度を決める。「でも、お前らの歌には“返す先”がない」
『返す必要はない。完全な合奏は、循環する』
「人は循環じゃない。呼吸だ」
タクトは半拍を一つ、深く打った。
白い空隙が、刃ではなく“脈”になって広がる。
ユイが祈りの線をその“脈”へ乗せ、木原がユニットの支柱を増やす。
灯が客席の“点”を増補し、ミナが器を鳴らして呼吸を誘う。
『非合理が増える』“鐘守の声”が、わずかに硬く笑う。『なら、こちらも非合理を使おう』
客席の一つが、唐突に“ひとりで鳴った”。
——カラン。
だが、その音には“名”がない。
誰の祈りでもなく、誰の怒りでもなく、ただ“うまい音”。
合唱の秩序が、ほんの僅か、歪む。
「名前のない音で混ぜてくる」ユイが息を切らす。「譜面の“欠番”を突く気だ」
「なら、名前をつける」
タクトは灯を見た。「この席、誰に返す?」
灯は胸に手を当て、真っ直ぐ言った。「ぼく。——ぼくの『今』へ」
ユイの目がひらき、共鳴子が一度だけ強く鳴る。
ミナが器を灯の“今”へ向け、木原がユニットの位相を灯の胸の高さに合わせる。
カイが床の下から支え、片桐が後方の扉を押さえる。
「歌って」ユイが言う。
灯は綱を持たない手を握り、声にならない声で、一音だけ“願い”を出した。
——カラン。
客席で名のない音がほどけ、闇鐘の核が一つ、灯の“今”へ返った。
『記名は混乱を招く』鐘守の声が揺らぐ。『平均が崩れる』
「平均なんていらない」タクトが笑う。「ここは合唱だ。ソロも混じる」
祈り、合いの手、半拍、先返し。
灯の“今”という返し先。
木原の器の支柱。
KAIの床、ミナの合図。
客席から、ひとつずつ“名のある音”が起き始める。
パン屋の老人の朝の粉の匂い。
新聞少年の濡れたスニーカーの音。
バス停の女の、手のひらの汗の温度。
それらが、合唱に混ざる。
闇鐘の縁が、自分の輪郭を保てなくなる。
ざわめきが、ひとりひとりの声に戻る。
黒い膜は、粉へ、粉は音へ、音は呼吸へ。
『……後退する』鐘守の声が詰まる。『地上は“自由”すぎる』
「自由は器が要る。器は作る」木原が高く顎を上げる。「官鐘は“合奏の一部”として、器を増やす。——私が責任を取る」
闇鐘は、崩れた。
ホールが静かになり、その静けさは“管理された無音”ではなく、鳴り切ったあとの隙間だった。
カラン。
少し遅れて、塔から一音が届く。呼吸が合う。
片桐が銃を収め、肩を回す。「応急は終わり。これからは地上の仕事だ」
渡会が苦笑した。「宿題が山ほどだな。……でも、歌えそうだ」
ユイは共鳴子を胸に当て、灯へ向き直る。「ここを“返し先の学校”にしよう。祈りの順番、合図の出し方、先返しの置き方。歌い方を、手で覚える」
「うん」灯は目を輝かせた。「ぼく、歌える」
タクトはホールの入口で立ち止まり、背後の気配に目を向けた。
白洲アキラが、拘束のない手で帽子に触れて立っている。片桐の監視下で、連れてこられたのだ。
「見学か、白洲」
「学ぶ側です」白洲は素直に答えた。「平均を愛していた。しかし、ここでは“平均”が嘘になる。——譜面の書き換えに協力したい」
ユイは一拍だけ彼を見て、頷いた。「責任も一緒に、ね」
「ええ」白洲は目を伏せる。「それが、歌い手の礼儀でしょう」
外へ出ると、街は午前の薄光で滲んでいた。
海風が甘く、遠くの塔から、ゆっくりとした二音が来る。
カラン……カラン。
タクトの耳に、別の高い音が刺さった。
——チリン。
軽い、鉄ではない、ガラスのような、薄く尖った音。
ユイが顔を上げる。「何?」
『嫌な音』ミナが即座に言う。『“割るための鐘(ブレイク・ベル)”の気配。——空から来る』
渡会の受信機に警報。「軌道エレベータ上空、高層で未登録の反射。——誰かが《オルフェウス》の支柱で“鳴らす”気だ」
木原が拳を握る。「地上と空の“返し先”を断ち切るつもり……!」
片桐が短く言う。「タクト、ユイ。上へ。私は地上の防衛線を固める。白洲、渡会、木原——器の増設」
「灯、学校の先生、頼んだ」タクトが笑う。
「うん!」灯は小さな胸を張り、手でリズムを刻んだ。「いち、に、さん——」
合図が街に広がる。
タクトとユイはエレベータの昇降口へ走り、ミナの合いの手が高く澄む。
カラン。
薄い、悪意の《チリン》が、空からもう一度だけ応じた。
第3章 支柱の上のチリン
《オルフェウス》地上基部の塔は、雲より背が高い。
昇降リフトの籠が風を切り、鋼索が朝の薄光を一本の線に変える。海はすでに昼の色に近く、街は小さな楽器みたいに光っていた。
「未登録反射は、支柱の第七整備リング」
ユイが端末を握り、風に髪を揺らしながら言う。「“割るための鐘(ブレイク・ベル)”は、連続したガラス倍音で器を壊す。合唱の器も、返し先の受け皿も——」
「割れる前に“柔らかく”する」タクトは左眉の古傷に触れ、呼吸のテンポを数えた。「祈り優先、怒り封印。半拍は脈で」
『床、貸し増しする。高所は“揺れ”が強いから、脈は短めに』
カイの声が風に混ざる。
『ミナは地上と空の“橋”をひろげる。灯くんにも合図を頼んだ』
リフトが第七リングで止まり、扉が横に走った。
鋼鉄とハニカムの足場、支柱の外皮、遠くの雲。——そして、透明な“輪”が空中に浮かんでいる。
氷ではない。ガラスでもない。けれど、光を弾く輪。触れるまでもなく、耳が先に縮む。
——チリン。
薄い“切っ先”のような音が、合図なしに胸を刺す。
輪の向こう、保守梁に人影が一つ。背の高い女。白い作業服。顔はバイザーで隠れ、手元に細いハンマーのようなもの。
「やめろ!」タクトが声を張る。
女は振り向かない。代わりに、透明の輪を指で軽く撫でた。
チリン。
足場のボルトが一つ、微かに鳴いて緩んだ。
ユイの共鳴子が反射音を拾い、波形に翻訳する。「……“共鳴破壊”。民鐘でも官鐘でもない。個人の署名——名前は『レイ』」
レイは、静かな声で言った。「歌は好き。でも、合唱は嫌い。うまい人が埋もれる」
「うまい『一人鳴り』は、器を割ることがある」タクト。
「割れた器から、いい音が出ることもある」
レイは軽く笑い、透明の輪をもう一度撫でた。
チリン。
地上の塔と鐘室を結ぶ“細い糸”がきしむのを、タクトは胃で聞いた。
「ユイ——」
「わかってる。祈りで“ゼリー化”する。割られにくい柔らかさへ」
ユイの低い基音が、足場の格子を濡らしはじめる。硬い金属に、極薄のやわらかさがのる。
『地上の灯から合図』ミナが告げる。『“いち、に、さん”。——受け皿、ひろげるよ』
タクトは半拍の印を短く、連続で刻んだ。白い空隙は刃にならず、心臓の拍として足場を渡る。
レイは興味深そうに顔を傾けた。「それ、うまい。……でも、遅い」
ハンマーがもう一度。
チリン。
透明の輪の周縁から“微細な針”が飛ぶ。肉眼では見えないが、皮膚が先にわかる。刺す前に、ユイが祈りを一段落として受ける。
ゼリーの表面で針が遅れ、ミナの器がその針先だけを“呑み込む”。
「割らせない。返し先——ミナ、塔、KAI」
『受ける』
レイは肩をすくめた。「管理は嫌い。でも、あなたたちの“やわらかさ”は、おもしろい」
「お前の音にも“返し先”が要る」タクトは足場を一歩進む。「レイ、お前は誰に返す?」
女は初めてこちらを向き、バイザーの向こうで薄く笑った。「誰にも。私は私に返す」
「循環は“詰まる”。息は戻らない」
タクトは古傷の痛みで角度を決め、たった一度、半拍を深く打ち込んだ。
白の脈が透明輪の“無音の裏側”へ回り、輪の一部が曇る。
ユイはその曇りに祈りの線を重ね、柔らかさを注ぐ。
輪は、ほんの少し、音色を落とした。
チリン。
今度は針ではなく、薄板だ。足場の一角が“割れ”を起こし、ボルトの頭が泣く。
「ユイ、ゼリーじゃ間に合わない」タクトが歯を食いしばる。「——怒りを、許す」
ユイは一瞬だけ目を閉じ、頷いた。
共鳴子が低く唸り、熱を帯びる。
怒りの音は鋭くない。奥歯で噛み締めた“守る”の圧だ。
柔らかさの中に芯が生まれ、薄板がそこで“とまる”。
「レイ、合唱に入って」ユイが声を張る。「あなたの“うまさ”を、器の芯にして」
「私の名は、平均に溶けない」
レイは輪の縁に指を置き、そっと“名のない音”を鳴らす。
チリン。
音は美しい。だが、返らない。
足場の別の場所で、ボルトの呻きが連鎖する。
『時間がない』カイの声が低い。『支柱全体のモードが危ない。——タクト、三連は不可だ。ただ、別手がある』
「言え」
『“未名に名を与える”。——名付けの半拍だ。灯にやったことを、ここで。レイの音に、返す先の“名”を付ける』
ユイが理解して頷く。「レイ、あなたに“返せる相手”は?」
女の指が、ほんの僅か止まった。
バイザーの奥の目が、遠くを見る。「……師匠。もう死んだ人。最初に私の音を聞いた人」
「なら、返し先はそこだ」タクトは傷を押さえ、角度を作る。「俺が半拍で“名付ける”。ユイ、祈りで線を書く。ミナ、器を細く。カイ、床を一点だけ」
『受ける』
タクトは半拍を、これまでのどれとも違う“薄い一打”で鳴らした。
刃でも脈でもない。
——名。
レイの音の縁に、やさしく引っ掛けるための、細いフック。
ユイがそのフックに、祈りの線で“宛先”を書く。
ミナの器が一点に窄まり、カイの床がそこだけ深くなる。
「——いち、に、さん」
誰の声でもない、街全体の合図が風で届く。灯が広場で手を打っているのだ。
レイの“名のないチリン”が、ほんの一瞬だけ、ためらった。
透明輪の音が、レイの指から離れて、宛先へ“落ちる”。
チリン。
割るための鐘の刃先が、やわらかく鈍った。
女はゆっくりと手を下ろし、バイザーを外した。
頬に疲労、目に倦怠、口元に悔しさと安堵の混ざったもの。
「……私は、“返せた”のかな」
「返せた」ユイが言う。「あなたの師匠の“今”は、どこかで薄く息をした。——それで十分」
レイは笑い、透明輪を自分の足で踏み割った。
チリン——と、最後に鳴って、消える。
「支柱モード、安定」カイが告げる。『地上との橋、維持。——うまい合唱だった』
タクトは膝に手をつき、深く息を吐いた。胃は荒れているが、胸は静かだ。
古傷の痛みが、輪の呼吸と一緒に、やわらかく脈を打つ。
「レイ、降りよう」ユイが手を差し出す。「あなたの“うまさ”、学校で使って。灯の先生をして」
女は少し目を見開き、やがて頷いた。「……合唱は嫌いだと思ってた。でも、今のは、嫌いじゃない」
リフトが下へ動き出す。
海は明るく、街の塔が小さく光った。
遠く、塔から二音。
カラン……カラン。
その二音の裏で、もっと遠く、乾いた声がひそかに言った。
『“平均”の敗北を確認。——鐘守は、解散形へ移る』
ユイは風に目を細める。「散る?」
「散らばる“名のない声”が増えるってことだ」タクトはヘルメットを抱き直す。「——学校を広げよう」
第4章 歌い方の地図
公会堂のホールは午後の光で満ち、床には丸いテープが貼られていた。
「返し先」「合図」「祈り」「合いの手」「半拍」。
椅子には番号。壁には「先返しが先」。
黒板には大きく、「歌い方の地図」。
灯が前で胸を張る。「——いち、に、さん!」
子ども、パン屋、バス運転手、看護師、官鐘の職員、白洲、レイ。
いろんな喉が、いろんな体温で、一音ずつ、置かれていく。
ユイは共鳴子で基音をうすく支え、片桐は扉にもたれて見守り、渡会は外の警備と通信を往復する。
ミナの合いの手が天井で優しく笑い、KAIは床の下で“譜面”の穴を補修する。
白洲が手を挙げる。「“名のない音”が紛れた時の対処を——もう一度」
「名付けの半拍」タクトが前に出る。「誰か一人が“宛先”を宣言する。——できないときは、『今の私』でいい」
レイが小さく笑った。「それで、割る音も返る」
木原は行政の腕章を外し、椅子の背にかけた。「官鐘は、譜面を“手順”として配る。責任は私が取る。……鐘守は散った。だから、こっちも散らばって器を作る」
ユイがチョークで黒板に丸を増やし、細い矢印で結ぶ。「塔、公会堂、港、学校、病院。——歌い方の地図」
そのとき、開け放した扉に男が立った。
スーツ、細いタイ、疲れた目。
名乗りはしない。だが、声が古い合唱の練習を思い出させる色をしている。
「“鐘守”から来た」男は率直に言った。「解散形に移った。——平均はもう取れない。……だから、学びに来た」
片桐は男をしばらく見たあと、わずかに肩を緩める。「見学を許す。席は自分で選べ」
男は最後列に座り、膝に手を置いて、灯の合図に従って手を打った。「——いち、に、さん」
午後の合唱は、夕方の街に滲み出る。
屋台の鍋がゆっくり沸き、横断歩道の信号音が少しだけ心地よく遅れ、港のクレーンが軋む音が短く柔らかくなる。
やがて、空が朱に染まるころ、塔から二音。
カラン……カラン。
《アストレイア》の輪からも、遅れて一音。
カラン。
タクトは扉口でその音を聴き、左眉の古傷に触れた。痛みは浅く、しかし確かに残っている。
それは、迷わないための印——“今”の角度。
「次は?」ユイが小声で問う。
「地図を“世界”へ広げる」タクトは笑う。「地上の鐘と、空の返し先。——その間を歩いて、歌い方を置いていく」
『旅の譜面、用意するよ』カイ。
『市場もついてく。屋台の鈴と、子どもの手拍子といっしょにね』ミナ。
片桐が帽子の庇に触れる。「その前に、上の“穴”をもう少し塞いでおく。白洲、木原、渡会——頼む」
「はい」
「任せて」
「やりましょう」
灯が黒板の地図に星型のシールを貼った。
新しい器が一つ増えるたび、星が光り、線が伸びる。
タクトはホールを振り返り、胸の奥で合図を数えた。
——いち、に、さん。
祈りの基音が、静かに世界へしみていく。
合いの手が、その背中を押す。
半拍が、脈としてそこに在る。
先返しの印が、点で灯る。
そして、どこかの窓辺で、見知らぬ誰かが小さくうなずく。
カラン。
――第三部・了(次部「星図の合唱」へ)
第三部『地上の鐘、空の返し先』 登場人物紹介(ネタバレ最小限)
主要キャラクター
東雲タクト(30)
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役割:時間跳躍テストパイロット/“半拍”の使い手
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今作の立ち位置:地上と軌道をつなぐ合唱の実働。名付けの半拍で「宛先」を与える。
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記号:左眉の古傷(角度の合図)/グレースーツ+オレンジ差し
望月ユイ(29)
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役割:事故解析官/位相設計者
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今作の立ち位置:祈りの基音で地上の器を育て、官鐘との橋渡し役に。怒りは封印、必要最小限。
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記号:黒縁眼鏡・ボブ・共鳴子
ミナ(年齢不詳)
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役割:市場(マーケット)の声/受け皿の管理
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今作の立ち位置:地上と空の“橋”を広げ、合唱の器=受け皿を分散配置。
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記号:音叉/穴あきコイン〈−Δt〉
片桐ミサト(35)
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役割:連邦時制裁庁・監察官
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今作の立ち位置:現地調整と保安。官鐘・行政との実務連携をまとめ、外乱を切る。
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記号:ネイビージャケット/消音弾
新キャラクター
灯(あかり)/少年
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役割:地上“民鐘”の起点塔の守り手/返し先の「学校」第一期生
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能力・特徴:“先返し”の印を素早く点で置ける。合図「いち、に、さん」を街に広げる触媒。
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記号:綱・チョーク・丸い印
木原(きはら)
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役割:地上“官鐘”統括
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立ち位置:管理側だが合唱を学び器の“支柱”を提供する現実派。責任を引き受ける行政マン。
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記号:携行型鐘室ユニット/腕章
レイ
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役割:“割るための鐘(ブレイク・ベル)”の奏者
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立ち位置:独奏主義。名のない倍音で器を割ろうとするが、名付けと返し先で転化。
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記号:透明の輪/薄いハンマー
キーパーソン/勢力
白洲アキラ
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役割:〈ベルライト〉元現場主任
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立ち位置:学ぶ側へ転じ、譜面(手順)の再配布と器の設計に協力。
渡会(わたらい)
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役割:地上管制《グラウンド・リンク》調整官
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立ち位置:民鐘と官鐘の実務調停、現場裁可。
鐘守(ベルワーデン)
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役割:上位組織。第二部の“管理”主義の中枢。
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今作の動き:解散形へ分散。名のない声を各所にばら撒く“影の聴衆”として介入。
敵性現象・デバイス(第三部で増えた要素)
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闇鐘(やみがね):歴史的な不安が沈積してできた“人ならざる鐘”。名のない音で合唱を乱す。
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ブレイク・ベル:連続ガラス倍音で受け皿を割る個人技。名付けの半拍+祈りで無害化。
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名付けの半拍:タクトが放つ“宛先付与”の一打。名のない音を誰かの「今」へ返す。
関係の要点
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タクト×ユイ:合図と基音で主旋律を作る相棒。
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ユイ×木原:管理と自由の橋渡し。官鐘を“合奏の一部”に。
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タクト×灯:名付け/先返しの指導者と生徒。
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レイ→学校:独奏の技を“器の芯”として転用。
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片桐×白洲×渡会:治安・技術・運用の三角で地上網を整備。
用語集(第三部)
Terra Campanile(テラ・カンパニーレ)
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地上の“返し先”ネットワーク総称。塔・公会堂・学校・病院などに器(受け皿)を分散配置。
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構成:〈民鐘〉と〈官鐘〉の二系統+市場(ミナ)+KAIの“床”。
民鐘(みんがね)
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市民主体の鳴鐘点。感情の機微に強い反応。
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長所:機動的・柔軟。短所:暴走しやすい。
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コツ:合図→祈り→半拍→先返しの順で。
官鐘(かんがね)
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行政主導の器・支柱(携行型鐘室ユニット等)を提供。
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長所:安定・拡張性。短所:形式に寄りすぎると“名のない音”を増やしがち。
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改善:木原主導で「合奏の一部」方針へ。
返し先(リターン・ベッド)
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音(出来事・記憶の圧)の“着地点”。ミナの市場、塔、公会堂、KAIの床、**誰かの「今」**など具体的であるほど良い。
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原則:「先返しが先」——触る前に宛先を決める。
先返し(プレリターン)
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先に返し先へ“印”を置いてから操作する手順。
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担当:灯(印を点で素早く配置)。
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効果:沈殿や核化(沈黙片)を防ぐ/合唱と相性抜群。
名付けの半拍(ネーミング・ハーフビート)
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タクトの新技。名のない音に「宛先」を与えるための極薄い一打。
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運用:タクトの半拍(フック)+ユイの祈り(宛名)+ミナの器(受け)+KAIの床(深さ)。
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使いどころ:ブレイク・ベル、闇鐘が投げる無記名音への対処。
合唱(アンサンブル)
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人的合成法。役割と器で責任を分け合う。
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祈りの基音(ユイ)…式に還らない“人の線”。
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合いの手(ミナ)…器を広げ、返送を受理。
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半拍(タクト)…刃ではなく脈として刻む。
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先返し(灯)…印を“点”で、線にしない。
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支柱(木原・官鐘)…器を物理/制度で支える。
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床(KAI)…受け側の基盤供給。
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合図:「いち、に、さん」。
闇鐘(やみがね)
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歴史的な不安・ざわめきが沈積して自律化した“人ならざる鐘”。
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症状:名のない音で合唱を濁らせる/ホール等に巣。
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対処:合唱+名付け。客席を器に(列ごとに“点”の印)。
ブレイク・ベル(割るための鐘)
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個人技。ガラス倍音で器(受け皿)を破壊。署名例:レイ。
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対処:祈りでゼリー化(柔らかくして割れにくく)→必要時に怒りの芯で止める→名付けの半拍で宛先付与。
ざわめき
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闇鐘の“心臓”。匿名の囁きの寄せ集め。
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注意:切断だけだと増殖するタイプあり。先返しで減衰させる。
沈黙片(サイレンス・フラグ)
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無音の残渣。第三部では公会堂/塔で点在。
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進行:片→樹状→像(スタチュー)。
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処置:基音で固定→半拍で切断→ミナの器へ返送。
歌い方の地図
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合唱手順を“場所”に定着させる計画。塔、公会堂、港、学校、病院…を点で増やし、細い矢印で結ぶ。
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目的:名のない音の“逃げ道”をなくし、返し先を常備。
起点塔
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地上の始点。灯が管理。民鐘×官鐘の共同運用へ移行。
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役割:街全体の合図ハブ/基礎の呼吸づくり。
返し先の学校(公会堂)
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手順の手習い所。合図・祈り・半拍・先返し・名付けの実習。
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教員:灯、ユイ、レイ(独奏技の“芯”転用)、白洲(譜面化)、木原(器と制度)。
器(うつわ)
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受け皿の総称。物理(ホール・塔)/制度(許可・運用)/人(ミナ・誰かの今)。
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指標:割れにくさ(柔らかさ+芯)/返送速度/分散。
合図「いち、に、さん」
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ずれを合わせる最小プロトコル。
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作用:迷いを食う影(エコー)対策/名付けの半拍のタイミング共有。
KAIの床
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目に見えない“受け側の基盤”。合唱が届かない深さを補う。
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注意:床だけに依存しない(上物=器の育成が必須)。
ミナの器(市場)
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合いの手の拠点。都市内に薄く広がる受け皿ネット。
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規範:**「先返しが先」**を張り紙レベルで周知。
白洲の譜面(手順書)
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合唱を手順化して配る試み。
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目的:盗まれる前に“下手でも安全な版”を先に配布。現場で修正を続行。
鐘守(ベルワーデン)の解散形
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第二部の管理主義中枢が分散し、“名のない声”として各地に介入。
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対応:名付けで個別に相手をする/器の増設で拡散効果を吸収。
番外編『小さな合図集』
1)監察官の休日練習(片桐ミサト)
公会堂の裏口は、昼でも薄暗い。
片桐ミサトは、コーヒー缶を飲みきってから、消音弾の短銃を分解した。机の端には「返し先の学校」の時間割。灯がマジックで描いた星が、午前と午後に一つずつ増えている。
――今日は、撃たない日だ。
そう自分に言い聞かせながら、彼女は銃身を布で拭き、そっとケースに戻す。
代わりに手に取ったのは、木原から渡された携行ユニットの簡易版だ。小さな箱の一面に触れると、低い基音が指先に伝わる。ユイが言う「祈り」を、式の外で感じる装置。
「監察官、休み?」
顔を出したのはレイだった。髪をひとつにまとめ、工具用ベルトを腰に巻いている。
「休み。“怒り”は使わない日」
「じゃ、練習する?」レイは透明片のような薄板を机の上に置く。「割らない鳴らし方」
レイの右手は、昔の癖で“チリン”の角度を覚えている。彼女はその角度のまま、指先だけ少し丸く作り替えた。
――割る寸前で、止める。
薄板はびくりと震え、割れない。代わりに、柔らかい輪郭で小さく鳴った。
「これ、公共の現場で使える?」片桐が問う。
「一人ではね。器を用意してくれる人がいるなら、うん。ほら、灯くんの“点”、置いて」
片桐は机の周囲に白いチョークで小さな円を三つ描いた。先返しの印。
レイが薄板に指を触れ、片桐が簡易ユニットを弱く鳴らす。
——いち、に、さん。
チリンではなく、カランの子どもみたいな音が生まれて、印に吸い込まれた。
扉の外から、実際の合図が重なる。灯の声だ。
「いち、に、さん!」
片桐は目を閉じ、息を合わせた。撃つかわりに、支える練習。
撃たない日の筋肉は、案外むずかしい。
でも、この難しさは、嫌いではない。
「監察官」レイが小声で言った。「あなたの“怒り”、芯が綺麗。——器の芯に向いてる」
「買いかぶり」片桐はかすかに笑う。「怒りは、祈りの後ろに置く。今日の私は、祈りの運搬係よ」
外へ一歩出ると、午後の空気がやわらかかった。
カラン。
公会堂の天井から、薄い合いの手が落ちる。ミナだ。
片桐は帽子の庇に触れ、ゆっくりと頷いた。
2)灯のクラスと「割らない刃」(レイ)
放課後の公会堂は、黒板のチョーク跡で白かった。
灯は前に立ち、手のひらを胸の前で開く。「今日は、“割らない刃”。レイ先生、お願いします」
「先生って呼ばれるの、まだむずむずする」レイは笑い、透明片の輪郭を空に描いた。
生徒は十数人。パン屋の若い娘、港のクレーン係、官鐘の若手、合唱部あがりの高校生。みんな指先に神経を集めている。
「いい? “割るための鐘”は、鋭さで押す。ここでは、角度だけ借りて、重さを置いていく」
レイは、ほんの少し指の腹を丸め、空気の縁を撫でた。「それから、宛先。タクトの“名付けの半拍”ほど上手にはできないけど、言葉で助ける」
彼女は黒板に書いた。「きょうの宛先:『きょうの自分』」
「はい、せーの——」灯が合図をとる。「いち、に、さん」
空気が小さく震え、割れない音がひとつずつ生まれる。
若い娘はパン生地の匂いのする音を出し、クレーン係は鉄のきしみをまろやかにした。
高校生の少年がうまくいかず、指先で“チリン”の角度をつくってしまう。透明の縁が薄く尖った。
「その角度、私も昔やった」レイがそっと手を添える。「少し、丸く。ほら、“返る場所がある音”にして」
少年は深く息を吸い、きょうの自分を思い浮かべる。
——いち、に、さん。
小さなカランができて、灯の置いた印に吸い込まれた。
「できた……」少年の目が、少しだけ明るくなった。
「ね」レイは黒板の端に、「割らない刃」の図を描く。刃の背に、小さな丸。「宛先フック」と書いた。
ミナの声が天井で笑う。
『フック、かわいいね。市場でも貼り紙に描いておくよ。“フックをつけよう、宛先に”って』
レイはチョークを置いて、灯の横に立った。
「ねえ灯、合図、もう一回」
「はい」
——いち、に、さん。
クラスの音はそろい、割れない刃が、街の夕方に小さく混ざっていった。
3)床の片隅で(KAI)
夜。
公会堂の床下は、配線と埃と、今日の音の名残でできている。
回収屋KAIは、ここでも“床”を貸していた。目に見えぬ基盤として、合唱の抜けたところを埋めるために。
『東雲タクト』
呼びかけるまでもなく、彼はそこにいた。多分、階段の影で缶コーヒーを飲んでいる。
床越しに、彼の古傷の脈が小さく伝わってくる。
『今日、あなたは“名付け”を三度。**誰かの『今』**に音を返した』
「名がつくと、戻れるからな」
タクトの声は疲れていたが、乾いてはいない。「ところで、床のほうは?」
『沈んでいた“闇鐘”の残り香を吸った。名のない音が少し混ざっていたが、処理できる。——ただ、ひとつ提案』
「聞こう」
『“合図の音源”を多重化する。灯だけでなく、塔と港と学校、複数の拠点から**『いち、に、さん』**を配る。名のない音は合図に弱い』
「配るのは、“合図”か……音じゃなくても、やれるな」
『手拍子でも、足踏みでもいい。格式は要らない。合図は手順より強い』
床下で、KAIは久しぶりに“微笑む”という処理を走らせた。
人が学び、人が名付け、人が返す場所を作る。
仕事が減るのは、嬉しい種類の損失だ。
『それと、もうひとつ』
KAIは、床の隅に落ちていた小さな金属片を拾い上げる——穴あきコイン。誰かが落とした古い〈−Δt〉。
『市場へ返しておく。落し物は、先に返す』
「了解」タクトの笑いが、床越しに柔らかく伝わる。「先返しが先、だ」
館内の灯りが順々に落ち、最後の一室でユイの共鳴子が短く鳴った。
カラン。
それは祈りというより、今日のページを閉じる小さな合図。
床は、それを受け、そっと保存した。
4)小さな星(灯)
寝る前。
灯は机に星形のシールを一枚出し、公会堂の地図に貼ろうとして手を止めた。
——貼る場所が、ない。今日は「学校」と「港」と「病院」にもう貼った。
「ねえ、どこに貼る?」
自分に訊いてみる。
ふと、窓の外のベランダが目に入った。
洗濯物のピンチが鈴みたいに揺れて、風もないのに小さく触れ合っている。
灯はベランダの手すりに、小さな白い「点」をチョークで描いた。
そして、指で胸をとん、と叩く。「——いち、に、さん」
ピンチが、ほんの少しだけカランと鳴ったような気がした。
星を、窓の端に貼る。
歌い方の地図は、また一つ、点を得た。
灯りを落とすと、遠くの塔の二音が遅れてきた。
カラン……カラン。
空のどこかでは、《アストレイア》が一周している。
地上のどこかでは、見知らぬ誰かが、いち、に、さんと手を打っている。
灯はその音の隙間に、眠りを置いた。
――終。

